『ウルトラマン』の中のクトゥルー神話

 『ウルトラマン』の中のクトゥルー神話というと『ウルトラマンティガ』にガタノゾーアという怪獣が登場した話があるが、それはさておき、ここでは(初代の)『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』のあるエピソードについて書く。


 『ウルトラマン』第20話「恐怖のルート87」にはヒドラという怪獣が登場した。
 クトゥルー神話ではハイドラやヒュドラと表記されることが多い"Hydra"だが、ギリシア神話などでは普通にヒドラという表記も使われるので同じ名前といえる。
 ギリシア神話におけるヒドラは、多頭の蛇で、一つの首を切り落とすとそれが二つになって再生するという怪物である。
 (ヘンリー・カットナーの「ヒュドラ」では、切断された首が無数に融合した存在が描かれていて、これもギリシア神話からのイメージと思われる。)


 『ウルトラマン』のヒドラは鳥型である。
 そもそもラヴクラフトの「インスマウスの影」におけるヒュドラダゴンとつがいという以外には説明がないので、例えば、〈海のダゴンと空のヒドラ〉という風に考えれば鳥型という想像もできなくはない。
 このヒドラは、伊豆シャボテン公園に実在する荒原竜という巨大な像がモデルになっている。
 「恐怖のルート87」作中の設定では、この像は子供からデザインを募集したものということになっている。そして本物のヒドラが出現したために、デザインが当選した子供を科特隊の隊員が訪ねることになる。
 その子供は交通事故ですでに死んでいるのだが、その子がいた孤児院の部屋には今も怪獣の絵が飾られている。孤児院の女性は、その子はヒドラは本当にいると信じていたと語る。
 それを聞いたイデ隊員は「夢でも見たんじゃないか」と言う。


 この話はふつうに考えれば、交通事故で死んだ子供が幽霊になって出たときに、その子が想像していた怪獣もいっしょに現れて自動車に復讐する、ということだと思う。
 だが、別の解釈として、ヒドラはもとから実在していて、子供の精神とのある種の共感によって夢に現れていた。共感していた子供を自動車に殺されてヒドラは復讐を始めた、と考えることもできる。
 こう考えると、子供の描いたヒドラの絵は、「クトゥルーの呼び声」における粘土板の浅浮彫と共通するモチーフであるといえる。


 その子供だが、じつは話の初めの方で本部にいるアキコ隊員の前に現れ、ヒドラが暴れるという予言のような警告をしていた。
 「恐怖のルート87」の脚本は金城哲夫である。同じ金城脚本の『ウルトラセブン』の中にも、すでに死んでいる子供による警告から始まる話がある。それが、第42話「ノンマルトの使者」なのである。
 ノンマルトとは、現人類より以前から地球に住んでいたとされる海底人で、その海底都市がウルトラ警備隊の潜水艦からの攻撃で滅ぼされるという展開も含めて、やはり「インスマウスの影」などのクトゥルー神話を思わせる設定である。


 つまり、金城哲夫脚本による、死んだ子供による予言という場面をもつ二作「恐怖のルート87」と「ノンマルトの使者」は、ともに〈夢に現れた怪獣の絵〉と〈人類以前の海底種族〉というクトゥルー神話的な要素を持ち、そこへヒドラという名前の怪獣が登場しているのだから面白い偶然である(あるいは偶然以上の何かを読み取るべきなのか)。


 と、いうわけで次回はクトゥルー神話風に改変した「ノンマルトの使者」を書いてみようと思う。

巨大ロボvsクトゥルー

 しかしやはり『デモンベイン』が気になる。
 そこで、“巨大ロボvsクトゥルー”というイメージについて考える。

 巨大ロボ――アニメに出てくる人が内部に乗る人型メカなどは“メタルスーツ”(上野俊哉)と呼ばれたりもする。
 では、クトゥルー神話に登場したメタルスーツ第一号は何か?
 これを書いたのは、やはりラヴクラフトで、短編「神殿」のラストシーンに描かれた、Uボートから海底遺跡へ降下する主人公の身を包む潜水服がメタルスーツと言える。

 だが、その後のアメリカの作品だと、あまり上げるべき作品を思いつかない。
 クトゥルー神話ではないがその近辺で重要なのは、小説では、パワードスーツでクモ型生物と戦うロバート・A・ハインラインの『宇宙の戦士』。映画では、H・R・ギーガーの画集『ネクロノミコン』がデザインの由来である宇宙生物と外骨格型のパワーローダーで戦う『エイリアン2』ぐらい。
 あと『デモンベイン』以降だが、巨大ロボ・イェーガーが怪獣と戦う『パシフィック・リム』がある。監督のギレルモ・デル・トロは、『妖蛆の秘密』の引用から始まる『ヘルボーイ』の監督でもあって、「狂気の山脈」の映画化も企画していた。

 もう一つ重要な作品として、人類の精神に影響を与える“黒い石”が出てくる『2001年宇宙の旅』(原作アーサー・C・クラーク、監督スタンリー・キューブリック)も挙げたい。
 宇宙服が出てくる作品はいくらでもあるが、この映画には球体型のスペースポッドも出てくる。そしてこのデザインは『機動戦士ガンダム』におけるモビルスーツの原型(?)的兵器“ボール”とそっくりである。
 それに『2001年宇宙の旅』は、先述の「神殿」とストーリー展開がよく似ている。潜水艦/宇宙船が未知の目的地への航行の途上、「神殿」では乗組員が反乱を起こすが、『2001年』ではHALが反乱を起こす。
 『ガンダム』のモビルスーツは『宇宙の戦士』のパワードスーツが原点と言われることもあるが(ガンキャノンがパワードスーツとそっくりという説もある)、ストーリーは『2001年』に近いというべきではないか。人類が精神進化(ニュータイプ化)に至る過程でスペースコロニーが反乱を起こす。
 クトゥルー神話に精神進化テーマを結びつけたのが、コリン・ウィルソンで、『精神寄生体』では宇宙への離脱によって精神寄生体の影響を排することができ、人間の精神本来の力を発揮できるようになる。
 モノリスのような人類を導く存在は登場せず、“重力”が人間を地球に引き留めているとする『ガンダム』の世界観は『精神寄生体』により近い気がする(『逆襲のシャア』は『精神寄生体』の続編のようにも見れる)。

 ウィルソンのもう一つのクトゥルー長編が『賢者の石』。こちらは脳に金属を埋め込むことで、人類の精神を支配しているクトゥルーに対抗する力を得ることができるというもの。
 脳の機能強化によって未知の敵と戦うという発想は、むしろ『新世紀エヴァンゲリオン』に近いと言える(PCゲーム『沙耶の唄』は、事故による脳の損傷で異様な世界が見えるようになった青年の話で、これも『賢者の石』と多少似ている)。

 しかし『デモンベイン』の話だ。
 この種の作品をスーパー系とリアル系に分ける分類がある。
 『デモンベイン』はスーパー系ということになるらしい。
 スーパー系の代表的なイメージは『マジンガーZ』や『ゲッターロボ』(これらの“原作”永井豪は後に『魔界水滸伝』のイラストを担当する)。だが、『デモンベイン』はこれら70年代アニメの雰囲気をそのまま再現したというわけでもない。では何なのか?
 リアル系の原点は『ガンダム』ということになるが、その監督・富野由悠季の後の『聖戦士ダンバイン』や『重戦機エルガイム』といった神話的ともいえる雰囲気の作品だと、スーパー/リアルという分類には上手く納まらないのではないか。
 『エルガイム』にデザイナーとして参加していた永野護がその設定を一部流用して描いたのがマンガ『ファイブスター物語』(FSS)であるが、『デモンベイン』はこれと似ている。乗り手が機械の神を動かすために擬人化した魔導書と契約しなければならないという設定は『FSS』のヘッドライナーとファティマの関係と似ていて、じっさい『デモベ』のナコト写本と『FSS』2巻表紙のクローソーとはそっくりのデザインである。
 ただ、デモンベインは都市の防衛機構の一部であったり、アメリカの空母が出てきたりと、スケール感でいうと『エヴァンゲリオン』に近い。
 したがって『デモンベイン』は、コンパクト化した『FSS』であり、わかりやすくなった『エヴァ』という感じがする。
 「手堅くまとめた」とは言えるが、クトゥルー神話作品としては、物足りなさも感じる。
 しかし、このことは『FSS』のように壮大で、『エヴァ』のように難解な、もう一つの“巨大ロボvsクトゥルー”作品を構想し得る可能性もあるということではないか。

フィリップ・マーロウ・ミーツ・クトゥルー

 フィリップ・マーロウ・ミーツ・クトゥルーすなわち、私立探偵がクトゥルーと出会う。
 これが自分が見たい作品のイメージという気がする。
 「私立探偵」「クトゥルー」はそのものでなくても、それらしいものならいいことにして思いつく作品を並べてみよう。 

 フィリップ・マーロウの生みの親レイモンド・チャンドラークトゥルー神話的なものに接近した例が「黄色いキング」で、これは前回取り上げた。
 逆に、ラヴクラフトの側から探偵小説に近づいた例として「レッドフックの恐怖」がある。これは、退職した刑事の回想で、異界のものと出会うまでの体験が語らえている。クトゥルー・ハードボイルドといったジャンルがあるなら、この作品が起源ということになるだろう。
 あと、「クトゥルーの呼び声」の第二部は「ルグラース警部の話」で、邪神教団に対する捜査報告が内容の大半である。

 他にホラー作家による私立探偵ものでは、クライブ・バーカーの《血の本》シリーズの一作「ラスト・ショウ」が思い浮かぶ。奇術師の遺体の警護を依頼される探偵の話。

 チャンドラーの先輩格にあたる元祖ハードボイルド探偵作家がダシール・ハメット(『H・P・ラヴクラフト大辞典』にはこの人の項目がある)。ハメットには『デイン家の呪い』というオカルト色の強い探偵小説もあるが、代表作『マルタの鷹』にも微妙なオカルト要素がある。マルタ騎士団がスペインの皇帝に送った黄金の彫像《マルタの鷹》の由来が語られる際、そのマルタ騎士団について「テンプル騎士団のようなもの」と説明される。ただそれだけ。
 だが、この「テンプル騎士団」の一言に過剰反応して書かれたのがウンベルト・エーコフーコーの振り子』やセオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』である。いずれも現在に残存するテンプル騎士団の陰謀が出てくる。『フリッカー』のほうはポーの「大鴉」などには触れられるもののクトゥルー要素はなかったが、『フーコーの振り子』はクトゥルー神話関連作品といえる。

 ラヴクラフトとチャンドラーは、ともにアメリカ人でありながらイギリス文化に憧れ、詩人を志した。それでいて両者ともパルプ雑誌に小説を発表することとなる。
 チャールズ・ブコウスキーには『パルプ』という作品がある。これは私立探偵ものだが、パルプつながりでか宇宙人ネタも入っている。さほどラヴクラフト的ではないが。

 フィリップ・マーロウ・ミーツ・クトゥルーというイメージをごくシンプルにあらわしている作品を上げるとすれば、"The Long Tomorrow"というマンガがある。フランスのマンガ=バンドデシネの短編で作画はメビウス、原作はダン・オバノンである。
 内容はブレードランナー風の未来都市で、私立探偵が女から地下のコインロッカーの荷物を取り出してくるよう依頼され、途中、異星人の殺し屋に襲われたりもしつつ、最後には女の正体が物体Xみたいなグチャグチャの怪物と判明し、探偵はこれをブラスターの一撃で粉砕する、といったもの(残念ながら日本語版はない)。
 これと似た雰囲気なのが、『ヘビーメタル』というオムニバスアニメの中の「ハリー・キャニオン」で、タクシードライバーのハリーが、宇宙的恐怖の根源である緑の球体の争奪戦に巻き込まれる話。
 このようなパターンの原型的なものとして、映画『キッスで殺せ』を挙げられるかもしれない。ミッキー・スピレーンによる原作『燃える接吻』では麻薬だったマクガフィン的な謎の物体が、この映画では核物質に置き換えられ、それが激しい光と叫び声のようなノイズで描写されたことで神秘的な雰囲気になっていた。後に映画『レポマン』では、この同じ演出が車のトランクの中の宇宙人を表現するのに転用された。

 日本の作品だとまず高木彬光「邪教の神」がある。神津恭介をハードボイルド探偵と呼ぶわけにはいかないが、ともかく、木彫りの邪神像をめぐって起こる連続殺人を描いた怪奇ミステリである。
 そしてやはりマンガで、谷弘兒『地獄のドンファン』がパロディ的なセンスもありつつ、ラヴクラフト的な暗黒世界を描いていた。女性連続変死事件を追う特務捜査官・神山京介が木曽山中の奇怪な城館で狂気の世界を垣間見る話。同じ作者でより壮大な活劇『薔薇と拳銃』も面白いが。

 PCゲームでは、海外のもので『アローン・イン・ザ・ダーク』、日本だと『黒の断章』『Esの方程式』の《涼崎探偵事務所ファイル》二作が、いずれも私立探偵を主人公とし、クトゥルー神話要素もあるらしいが、どれも小説版は読んだものの、ゲーム自体はプレイしていないので、どんな作品なのかいまいちよくわからない。
 そう言えば、やはりゲームで、巨大ロボがクトゥルーと戦う『斬魔大聖デモンベイン』も主人公・大十字九郎の職業は私立探偵だった。

 もう一つ、日本の小説で重要なものとして村上春樹羊をめぐる冒険』も挙げておきたい。
 この作品は、私立探偵ものでも、クトゥルー神話でもないが、作中に登場する“羊”は精神寄生体の一種といえるし、失踪した友人を探すストーリーの展開は『長いお別れ』というよりは「闇に囁くもの」に近い気もする。
 村上春樹は、後にチャンドラー作品の翻訳を手掛けることになるし、同じ三部作の一作目『風の歌を聴け』で語られる小説家デレク・ハートフィールドのモデルはラヴクラフトではないかとも言われているくらいで、双方から影響を受けているのだろう。
 なので、フィリップ・マーロウ・ミーツ・クトゥルーというモチーフの、もっとも文学的なバージョンがこの『羊をめぐる冒険』と言えるのではなかろうか。その反対の端に位置するのが『デモンベイン』ということで。

レイモンド・チャンドラーによる「黄衣の王」

 『トゥルー・ディテクティブ』以前に海外テレビドラマで“黄衣の王”に言及した作品が、『私立探偵フィリップ・マーロウ』の中の一話「黄色いキング」というエピソード。原題は"The King in Yellow"なので、まんま「黄衣の王」である。
 と言っても、キング・レオパルディというミュージシャンが黄色いパジャマを愛用しているので、“黄色いキング”と呼ばれる場面があるというだけなのだが。
 原作はレイモンド・チャンドラーの中編で、小説の翻訳でも創元版(稲葉明雄訳『事件屋稼業』所収)、早川版(田村義進訳『レイディ・イン・ザ・レイク』所収)ともに「黄色いキング」となっている。
 小説では、主人公の探偵が黄色いパジャマ姿で死んでいるキングを見つけた際に、「黄色いキング。そんなタイトルの本を読んだことがある」(田村訳)と言う。ここで言われている「黄色いキング」という本とは、チェンバースの小説『黄衣の王』のことなのだろう。普通に考えればそうなる。だが、少し深読みするとチェンバースの連作中に登場する戯曲の「黄衣の王」を読んだことがあると言っているようにも思える。そう考えると、呪われた戯曲を読んだ者が、奇妙な事件に巻き込まれるという『黄衣の王』連作の一部であるかのようだ。
 つまり、チャンドラーの「黄色いキング」はハードボイルド探偵小説でありながら、「キング・イン・イエロー」というタイトルを梃子に、だまし絵のように一瞬だけ幻想小説の世界に迷い込んだと錯覚させる、そんな仕掛けになっているのである。

『トゥルー・ディテクティブ』はクトゥルー神話か?

[!ネタバレしています。]

 テレビドラマ『トゥルー・ディテクティブ』は、ハードな作風の刑事ものでありながら、作中で“カルコサ”や“黄衣の王(イエロー・キング)”に言及され話題になった。
 しかし、これはクトゥルー神話なのか?
 とにかく、関連用語が出てくればそれはクトゥルー神話なのだ、という立場をとるならば『トゥルー・ディテクティブ』はじゅうぶんその資格がある。
 だが、作中で言及される用語が“カルコサ”と“黄衣の王”の二つのみであることを考えると、この作品をあえてクトゥルー神話と呼ぶのは、少しおかしい気もする。“カルコサ”はアンブローズ・ビアスの小説が初出で、ロバート・W・チェンバース(あるいはチェイムバーズ)の『黄衣の王』の中でも使われた。その『黄衣の王』が発表されたのは1895年。つまりいずれも、ラヴクラフト以前からの用語である。
 ならば、『黄衣の王』連作に属する作品と考えてはどうか。と言って、これもおかしい。『黄衣の王』連作は、奇妙な出来事を描いた短編それぞれの主人公が、どこかで戯曲の「黄衣の王」を手にしているというものだからだ。『トゥルー・ディテクティブ』では戯曲としての「黄衣の王」が登場するわけではなく、“イエロー・キング”とはオカルト儀式殺人を行っている犯人の信仰の対象である。その意味では、やはりクトゥルー神話化した“黄衣の王”のイメージなのかもしれない。
 もう一つ、直接、神話用語とは言えないが、このドラマでは「緑の耳のスパゲッティー怪物に追いかけられた」という被害者の証言が出てくる。クトゥルー神話的な雰囲気に加えて“スパゲッティーモンスター”とくれば、これは「ダンウィッチの怪」のような状況を連想させたいのではないか。とはいえ、このドラマでは、怪奇作品的な意味での本物の怪物が出てくるわけではない。あくまで刑事もののミステリー・ドラマなのだ。
 ドラマで、間違った答えに誘導することをミスリードとかミスディレクションと言ったりする。
 そこでこの『トゥルー・ディテクティブ』を正確に位置づけるなら、クトゥルー神話をミスディレクションに用いたミステリー・ドラマ、となるだろう。

 ところで、『トゥルー・ディテクティブ』以前に海外ミステリー・ドラマで“黄衣の王”をネタにした作品がある。何かわかるかな。それについては次回。

ラヴクラフト以後のクトゥルー神話

 [ネタバレ注意! オーガスト・ダーレス『永劫の探求』、コリン・ウィルソン『賢者の石』、ロバート・ブロック『アーカム計画』の内容に触れています。

 ラヴクラフトの残した作品は、短編か長くても中編程度である。彼の死後、クトゥルー神話は次第に長編作品も書かれるようになった。ここでは、その代表的なものとしてオーガスト・ダーレス『永劫の探求』(『クトゥルー2』)、コリン・ウィルソン『賢者の石』、ロバート・ブロック『アーカム計画』の三作を題材に、ラヴクラフト以後のクトゥルー神話について考えてみたい。

 まずダーレスの『永劫の探求』(連作短編だが、実質、長編として読める)。内容は、盲目の老学者シュリュズベリイ博士がスカウトした若者を使い、“一人一殺”方式で邪神教団と戦うゴーストハンターものである。最後は原子爆弾クトゥルーの眠るルルイエへ投下する場面で終わっている。その結果クトゥルーを倒すことができたかどうかは、はっきりしない。
 ここがクトゥルー神話を書きつづけるうえで難しいところで、人類がクトゥルーに勝ってしまっては、そこで神話は終わってしまう。といって、勝てないことがはっきりしてしまっても、先をつづけるのは困難であろう。

 核兵器クトゥルーを攻撃したらどうなるのか――この問題にはっきりと答えを出したのがブロックの『アーカム計画』である。
 この作品は、「ピックマンのモデル」の絵が発見されるところからはじまり、徐々にラヴクラフトの作品世界が実在のものだったことが明かされていくのが第一部。第二部では、行方不明の夫を探す女性の視点を中心に、ナイアーラトテップの化身ナイ神父が率いる暗黒教団と人類防衛組織〈アーカム計画〉の戦いが描かれている。ここで核攻撃が行われ、クトゥルーはいったん消滅したものと思われる。しかし、近未来を舞台にした第三部の結末でクトゥルーは復活する――という構成となっている。
 なぜ、クトゥルーは復活できたのか。この作品では、ヨグ=ソトースがクトゥルーの情報を保存したバックアップのような存在として設定され、ナイアーラトテップはその管理者として描かれているのである。第二部のラストシーンは「ダンウィッチの怪」のラヴィニアのように女性がヨグ=ソトースの生贄にされる場面である。第三部が近未来になるのは、その時の子供が成長する期間を置く必要があったためなのだ。その成長した子供がクトゥルーへと変身するのであった(この解釈からすると「ダンウィッチの怪」は、正当な管理者抜きでヨグ=ソトースの召喚を行ったために、怪物的な落とし子が生まれてしまった話ということになる)。
 つまり、核攻撃によってクトゥルーを消滅させることは可能である、しかしヨグ=ソトースがいるかぎり何度でも復活させられる、というのがブロックが描いた世界なのである。
 たとえ核兵器を用いても人類はクトゥルーの眷属たちに勝つことはできない――このような結論のあとで、神話をさらに発展させることは可能だろうか。

 そこで重要なのが、ウィルソン『賢者の石』である(書かれたのは『アーカム計画』より前だが)。この作品ではクトゥルーにも言及されるが、主なテーマは〈精神進化〉である。軍事力による抵抗が無意味ならば、次に考えるべきは精神の戦いというわけである。
 この作品の〈精神進化〉とは、端的に言って超能力を得ることと言える。主人公たちは、脳に金属片を埋め込む手術によって超能力を使えるようになる。その能力とは、いわゆるサイコメトリーの強力なもので、超古代におけるムー大陸の滅亡を見通すことができ、人類とクトゥルーとの関わりを知ることができる。ウィルソンの描くクトゥルーは、海底で眠った状態にあっても人類の精神を支配し、その能力を制限しているのだ。
 『賢者の石』における超能力は、そうした過去の歴史を知る能力である。ここからさらに発展したものを考えるなら、超能力者が邪神群と直接対決するような作品となるだろう。そうなるとそれはもう、元来の〈ラヴクラフト型〉の神話から離れて、〈スペースオペラクトゥルー神話〉とでも呼ぶべき領域になる。そこに位置付けられるのが、ブライアン・ラムレイタイタス・クロウ・サーガ》や風見潤クトゥルー・オペラ』、栗本薫『魔界水滸伝』といった作品である。
 つまり、ウィルソンの『賢者の石』は、〈ラヴクラフト型〉と〈スペースオペラ型〉、その境界線上に位置する作品で、クトゥルー神話の一つの〈臨界点〉を示しているのである。

クトゥルー神話の定義

 「クトゥルー神話の定義」は何か。
 まず、ラヴクラフトの存命期とその死後では事情が違うので、分けて考える。
 ラブクラフトが現役だった時期を《生成期》、死後を《発展期》と呼ぶことにする。
 《生成期》には、まだクトゥルー神話という枠組みは意識されておらず、作家たちが行っていたのは、内輪の密かな遊びとして、邪神や魔道書の名を共有することだった。これは普通の読者なら気づかない細部であり、いわば〈細部のクロスオーバー〉とでも呼ぶべきものである。
 クロスオーバーというのは通常、スーパーマンバットマンのように有名キャラクターの共演を指すのだが、〈細部のクロスオーバー〉では、一般の読者が気づかないうちに要素の共有が進行し、いつの間にかネットワークが広がっていることに特徴がある。


 《生成期》に展開されたネットワークを再利用して構築されたのが《発展期》のクトゥルー神話である。これは、いわゆる〈シェアドワールド〉に近いものといえる。
 ただ、通常のシェアドワールドと違うのは、管理者や公式設定が存在しないことで、そのため作家間での設定の違いは普通に生じている。
 しかしそれでさしたる混乱も生じることなく、一つの神話体系であるかのごとくに展開している。これはなぜか?
 ラヴクラフトの小説というのは大概、古い魔道書の世界が、現代に再現されるという構成になっている。そして、後の世代の作家がラヴクラフトを意識して作品を書いた場合、ラヴクラフトの作品世界が現代に再現されるという構成になる。そこで設定に矛盾が生じたとしても、記録と現実という審級の違いとして解決されることとなる。「資料にはこう書かれているが、現実はこうだ」というふうに。
 つまり、通常のシェアドワールドが、一つの地図や一つの年表など同一平面上に位置づけていくことで作品を増やすのに対して、クトゥルー神話では、新たな作品は、過去の作品のメタレベルに位置づけられていくことになる。
 このことは、クトゥルー神話では、作中のアイテムである魔道書も、過去の神話作品も同列の〈オブジェクト(物、対象)〉として扱われることを意味している。じっさい、オーガスト・ダーレス、ロバート・ブロック、コリン・ウィルソンらの作品ではラヴクラフトの小説が作中の資料として登場している。
 例えば次のように。

 マサチューセッツ州アーカムミスカトニック大学に電報を打って、アブドゥル・アルハザードと称するアラブ人の作家が著した、『ネクロノミコン』として知られる書物の写しが、研究のために利用できるかどうか確かめてくれ。『ナコト写本』と『エイボンの書』についても問い合わせをして、昨年アーカム・ハウスが出版したH・P・ラヴクラフトの『アウトサイダー及びその他の物語』が、地元の書店で手に入るかどうか調べてくれ。こうした本がすべてそろえば、いや一冊でもあれば、ここに出没するものがなんであるかを判断するうえで役立つかもしれない。
  オーガスト・ダーレス「闇に棲みつくもの」(岩村光博訳)

 『ネクロノミコン』はラヴクラフトの小説内の一要素だが、『アウトサイダー及びその他の物語』はラヴクラフトの作品集で、個々の小説よりメタレベルに位置している。これらを要素として含む「闇に棲みつくもの」はさらにメタレベルにあるということになる。そして新たに、この小説を資料としてクトグァ召喚の方法を知るといった作品も書かれうるのである。
 このような構成を指して〈オブジェクト指向〉と呼ぶことができる。
 つまり〈オブジェクト指向のシェアドワールド〉、これが《発展期》のクトゥルー神話の特徴である。
 
 《発展期》のクトゥルー神話では、作中の世界にラヴクラフトの小説が存在している。そして、それはただ虚構の小説としてあるのではなく、真実の記録と見なされていなければならない。そうでなければ、クトゥルーも『ネクロノミコン』もたんに架空の存在ということになってしまうだろう。
 だから今、クトゥルー神話の定義を考えるとすれば、それは、

  ラヴクラフトの小説を真実の記録と見なす立場での創作

 と、なるのである。