AIにクトゥルー神話を書かせることは可能か?

 最近、AIに小説が書けるかということを考えている。
 そのきっかけはこの記事――

front-row.jp

 自分もAIを使ってこんな文章を書かせることができたらと、そう思ったのである。
 クトゥルー神話とかをね。
 もちろんただの素人がAIなどを扱うのは難しいかもしれない。だが、本屋に行ったらAIをプログラミングできるみたいな本が並んでいるし、勉強すれば何とかなるのではなかろうか。
 そんなわけで、いろいろ苦労を重ねた挙句、1000時間かけてウチの格安PCに出力させたのが以下の文章。

 私は病んだ精神をなだめすかしながら、ある文書を焼き捨てようとしている。
 あの時、私は、《アルハザードのランプ》を覗きこもうとしていた。それがどんな悲劇を招くかも知らずに。
「私は今や人間を超えた。もはや神をも恐れない」
 風が強くなってきた。融けかかった電話から道化師の声が聞こえる。
「アルミの羽目板はいりませんか」
 私は電話を黙らせた。しばらくして、どこからともなく鼠がやってきた。
 鼠は左右にふらつきながら近づいてきた。それから目を光らせてこちらを見た。
「不思議な鼠だ、何かにあやつられているようだ」
 鼠は私の網膜にファンタズムを送り込んできた。
 花のように鮮やかな城砦。巨人のようなオベリスク
 星降る静寂の夜に、蜥蜴たちが墓を暴く。
 詩人が夢を見る。笑う琥珀の仮面。
 いつの間にか鼠は退散した。しかし、あたりには異様な臭いが漂っていた。
「さあ、私とお前だけだ。《無形の落とし子》よ、出てこい。」
 虚無の暗黒の中から《無形の落とし子》があらわれた。
 そいつは言った。「俺は水を飲むように無秩序を飲む」
 私は口実を探したが、それは遠すぎた。
 この事実に私は希望を見出した。
 私は冷静にドー=フナの呪文を唱えた。
 《無形の落とし子》は獣的な第六のセンスでそれをかわした。
 蒼古の防御だ。
「俺は夢を見たことがない。それが俺の夢だ。お前は夢を見るか? 俺は見ない」
 私はキシュの印を結んだ。
 夜明けの空にUFOが飛んでいた。ゆっくりと降下してきた。
 次元の裂け目で無数の口が牙をむいた。
 《無形の落とし子》は私に向かって戦慄的な思念を送ってきた。
「おめでとう。今日がお前の命日だ。だが、それは死ではない」
 私は自分の精神が暗闇にのまれていくのを感じていた。
 森が震え、死者が立ち上がる。
 これはニャルラトホテプの悪夢だ!

 プログラムで作ったのでヴァリアントもいくらでも作れる。
 そのプログラムがこれ。

home.g06.itscom.net

 はやめに断っておくとこれはべつにAIというほどのものではない。もっともAIという語には明確な定義はないらしいけど。
 にしてもともかく、現状AIにまともな文章を書かせるのは不可能らしい、ということが少し勉強しただけで分かった
 その勉強のために今回読んだのがこの二冊。

人工知能は人間を超えるか』 松尾豊
『コンピュータが小説を書く日 AI作家に「賞」は取れるか』 佐藤理史

 一冊目は一般向けの概論書として知られたものらしいので、とりあえずこれからという感じで選んだ。
 二冊目はAIに小説を書かせるということを直接テーマにしているように思えたので。

 『人工知能は人間を超えるか』で、AI開発のだいたいの流れはわかる。
 機械学習というのが何なのかみたいなことについては、ざっくりしすぎていて、よくはわからない。
 素人に理解させるのは土台無理ということなんだろう。
 この本の中では「人間の知能の原理を解明し、それを工学的に実現するという人工知能はまだどこにも存在しない」と書かれている。つまり「まだできていない」のだ。スマート家電みたいなものは「ごく単純な制御プログラムを搭載しているだけ」らしい。
 最新技術のディープラーニングで「猫の画像」が識別できるようになった。
 同様の方法で聴覚や触覚などに関わる情報の識別もできるようになれば、AIはいずれ人間と同じ「概念」を理解できるようになる。言語が出理解できるようになるのは、それからなのだとか。
 本書の予測によれば、それも2025年ごろには実現するとされている。あと五年だ。


 『コンピュータが小説を書く日』の著者佐藤理史は、「気まぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」の「文章生成班」に属する人。
 このプロジェクトは「コンピュータによるショートショートの自動創作を研究」している。そしてその成果の作品が、2015年の「第3回星新一賞」に応募され、一次選考を通過した、と話題になったのである。
 本書前半は、そのプログラムができるまでのレポートで、文章生成に対する考え方が丁寧に説明されている。
 そのプログラムというのは、あらかじめ用意した候補文を乱数で選択していく方法らしい。
 大枠のストーリーは作者=プログラマーが考えたものだが、このシステムを使うことでシチュエーションを細かく変えられる。
 それで応募作「コンピュータが小説を書く日」は、同じ出来事がシチュエーションを変えて三度繰り返されるという構成になっている。

ここでじっさいプログラムを動かせる。
コンピュータが小説を書く日

 で、結局のところ、これもAIというほどのものではないですね。本書でも触れられている官能小説自動生成ソフト七度文庫を超えるものではないでしょう。
 佐藤理史は、「「人工知能」という用語は、具体的なシステムを指す用語ではなく、研究分野を意味する言葉」と書いていて、じっさい人工知能で小説を書くみたいなことは一度もいっていない(と思う)。
 「AI作家に「賞」は取れるか」という副題も「出版社の意向」でつけられたとのこと。疑問形だし。
 どうもこの本は「AI作家誕生か」とマスコミにやたらと持ち上げられたのを否定するために書かれたものらしい。

 あとこの著者は、「ロボットは東大に入れるか」通称「東ロボ」というプロジェクトにも国語担当で参加していて、本書第6章はその話題にあてられている。現状コンピュータには文章が読めないということが述べられているのだが、本書が出た直後には結局「凍結」という結果になってしまった。


 と、いうわけで、この二冊を読んだだけで、小説を書けるAIなどは存在しない、ということがよくわかった。

 しかしじゃあ、あのバットマンの文は何なのか?
 これも、はてブのコメントによるとコメディアンが書いたネタらしい。
 そのつもりで読み直してみるとたしかにネタっぽい。そもそもバットマンの映画は1000時間もないし(と、思ったが上映時間とコンピュータが分析に使う時間はイコールではないので、一本の映画の分析に1000時間かけることはあるのかも)。
 やっぱりAIなど、素人が手を出すにはハードルが高いのだろうか。
 ブックオフで見かけて目をつけておいた、AIをプログラミングできるという本も、念のためアマゾンのレビューをみてみたら「こんなもんAIじゃねぇ」と袋叩きになっていた。まあAIに明確な定義はないのでしょうがない。

 そんなこんなで、AIにクトゥルー神話を書かせるという計画は一度は投げ出したのだが、しかしあのバットマン文には未練があった。あの文章を読んだことでやる気を出したのだ。
 思えばあれは、世間が考えるAIのイメージをよくつかんでいたと言えるのではないか。だから翻訳記事になり、はてブも集めていた。私も初見の時は「なるほどAIが書くとこうなるのか」と思って読んでいた。
 と、いうことは、あの文を下敷きにして文章を書けば、ともかく「AIが書いた風」の文章になる!
 じゃあそれを書いてみよう。どうせなら複数の文が生成できるプログラムにしよう。となったんである。

 30行という長さも手頃だったので、一行ずつ置き換えていく感じで候補を作り乱数で選ぶようにした。
 最初に、元の文の最後の一行「これはジョーカーのジョークだ。」を「これはニャルラトホテプの悪夢だ。」というふうに変えれば何とかなるだろうと思いつき、他にも何種類かクトゥルーっぽいオチの文を考えて、そこへつながるように一行目から書き換えていった。
 途中で面倒くさくなってもとのフレーズをそのまま使ったりもした。
 あと日本語として微妙なほうがAIっぽくなるかと思ってそういう表現も入れる。

 こうして完成したのが上に挙げたプログラムとその出力文なのです。

 AIの開発に使うというプログラム言語Pythonの入門書も買ったけど、まだ一ページも読んでいない。
 それよりも、私でも使える基礎レベルのJavaScriptでもまだやれることはあるのではないか?
 今はそんな気がしている。