『マウス・オブ・マッドネス』について

 クトゥルー神話関連の映画について、好きな作品や気になることを書いていきたい。
 もっとも私はホラー映画はどちらかというと苦手でスプラッターものなんかはあまり見ていない。まあ、見た範囲での話ということで。
 まずは、ジョン・カーペンター監督の『マウス・オブ・マッドネス』。
 クトゥルー神話関連の外国映画の中ではこれが一番好き。じっさい重要作だと思う。

 どんな作品かを一言で説明すると「もし、ラヴクラフトスティーヴン・キングなみのベストセラー作家だったら世界はどうなってしまうのか?」ということだと思う。
 映画内の世界的ベストセラー作家サター・ケーンは「キングなんか目じゃない」と説明されている。
 そのサター・ケーンを読んだ読者がつぎつぎと凶暴化しているという世界で、新作小説『マウス・オブ・マッドネス』の完成を目前にケーンは行方不明になる。保険会社の調査員ジョン・トレントが出版社の女性社員リンダ・スタイルズとともに作家失踪の原因を調べに行く、というのが大筋。

 この作品、じつはキングの短編「クラウチ・エンドの怪」が元ネタになっているのではないか?
 映画の中でケーンの一つ前の作品は"The Hobb's End Horror"つまり『ホブズ・エンドの怪』である。もっともキング短編の原題は'Crouch End'で「の怪」は『真クリ』で訳された際に付け足されたのだが……。
 (クラウチ・エンドはロンドン郊外に実在する地名だが、少し前に出たキングファンサイトの管理人が編集した短編集『闇のシャイニング』に載っていたクライヴ・バーカーの「ピジンとテリーザ」もクラウチ・エンドが舞台だった。しかしクトゥルー神話らしさはないのが惜しい。)

『マウス・オブ・マッドネス』と「クラウチ・エンドの怪」の共通点を具体的に上げると――
 ・「××エンド」という土地へ男女のコンビが旅をする。
 ・男女のうち一方だけが何かを見てパニックにおちいるが、もう一方は何が起こっているのかわからない。
 ・そしてそのパニックにおちいった方の人物が消えてしまう(小説と映画では男女の役回りが逆である)。
 ・残された主人公はクトゥルー神話的な怪物を幻視する。

 この二人コンビのうち一方だけがパニックになり、もう一方には何が起こってるのかわからないという怖さをキングは、ラヴクラフトの短編「ランドルフ・カーターの陳述」から着想したのではないか。
 「ランドルフ・カーターの陳述」と「クラウチ・エンドの怪」はともに最初と最後の場面が主人公が警察官に対して体験を語る場面になっている。そして『マウス・オブ・マッドネス』では、それが精神病院で医師を相手に語る場面である。

 というわけで、『マウス・オブ・マッドネス』は、ラヴクラフトとキングを縦貫する特徴をうまく取り入れていて、そのうえ夢野久作感まであるわけで、なかなか大変な作品なのである。