ラヴクラフトとイドの怪物 ――あるいはクトゥルー神話のハムレットたち

 ダニエル・ハラー監督がラヴクラフト原作を映画化した二作『襲い狂う呪い』『ダンウィッチの怪』がいずれもイドの怪物型のストーリーになっていた、ということを前回までで述べた。
 だとすると、ラヴクラフト自身の作品におけるイドの怪物テーマはどうなっているのか? それを考えてみたい。
 とはいえ、ざっと振り返ってみても、これという作品は思い当たらない。
 ラヴクラフトとイドの怪物は元来、無縁なものなのだろうか。
 いや、逆のパターンならある。
 イドの怪物テーマとは、人間が(無意識のうちに)怪物をあやつっているという型の話だ。その逆というのはつまり、人間が怪物によってあやつられるという型である。
 この型、有名な古典作品ではシェイクスピアハムレット』がそうだ。ハムレットは父親の幽霊にあやつられている。
 『ハムレット』の例は現実的に言えば、父親の影響が強いという話だが、ラヴクラフト作品では、「壁のなかの鼠」では一時的な錯乱、「魔女の家の夢」では夢遊病という形で異界のものにあやつられる主人公が描かれている(あと「神殿」とか)。
 ここからさらに発展したものとして「戸口にあらわれたもの」や「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」の精神交換による身体の支配というテーマにつながっていく。
 そして「クトゥルーの呼び声」で、ルルイエが浮上した際にクトゥルーが世界中の狂人や芸術家に影響を及ぼすという設定も、こうしたテーマの拡張として位置づけられる。その映画的表現が、以前に取り上げた『マウス・オブ・マッドネス』や『オカルト』ということになるのである。

(追記――後で考えたら「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」は精神交換の話ではなかった。いずれにしろ身分を乗っ取られることにはなるが。精神交換と言えば「時間からの影」もあるが、これは交換の過程があまりに一瞬であやつられるという葛藤がない気がしたので挙げなかった。あとついでに、最近見た東映の「【怪獣区】ギャラス」という短編ドラマがイドの怪物型ともいえる話だった。)