『グラーキの黙示』1

 ラムジー・キャンベル『グラーキの黙示』1,2巻を読んだ。
 まずは第1巻、各話の感想を。
(注:ネタバレしています!)
 尚、文中で《猟犬型》とか《神殿型》とかいう用語を使っていますが、これは私が考えたクトゥルー神話の六つの分類で、くわしくはカクヨムの方に書いたので、まずは以下のリンク先を参照していただきたい。
神話製造器(小倉蛇) - カクヨム

 最初の作品が「ハイ・ストリートの教会」。序文にあたる「未知なるものを追い求めて」には「墓の群れ」というこの作品の原形の文章が一部紹介されている。これがパロディ的とも思える過剰なゴシック文体でなかなか面白そう。できれば全文読みたい。この時点ではキングズポートが舞台で、つまりは「魔宴」と関連した作品だったのだ。それをダーレスの指示に従って直したものが現行の作品。
 この作品は私は『インスマス年代記』で読んでいたけど、今回あらためて読んでみて内容を誤解していたことに気づいた。というのは、結末で主人公が教会から帰ってくると全身にキノコが付着しているという描写があるので、そうか教会へ行った者はキノコ人間になってしまうのか、と思っていた。ホジスンの「夜の声」のように、つまり『マタンゴ』だと。だがよく読んでみるとキノコは単に付着と書いているだけで、人体が変質したわけではないらしい。
 しかしだとするとこの小説、教会へ引き寄せられるだけで、中核となる怪異が欠けているように感じてしまう。何か怪物が潜んでいるとかそういうのが。
 ただ、神話用語の入れ方はうまいと思った。失踪した友人の知り合いに会うと、この人物がたたみかけるように用語を使って語る。
 型について。教会に引き寄せられるという話なので《神殿型》。あと、友人の失踪を描いているので《暗示型》の要素もあるけど、その友人がもともと登場していないのでこちらは弱め。

 次が「城の部屋」。わりと単純なプロットをじっくり書き込んでいる感じが良い印象。怪物の見せ方はリン・カーターの「奈落の底のもの」と似てる。ガソリンで解決するのはちょっと物足りない気もする。型は、伝説と思われたものが実在するという話なので《実現型》。

「橋の恐怖」。解説でも述べられているがキャンベル版の「ダンウィッチの怪」といった作品。怪しい人物が大英博物館で『ネクロノミコン』を読んでいるのを司書が背後から覗いたりする。
 文章は、チェスタートンという人物の手記を書き写したものということ(p101)だが、主語がチェスタートン=「私」になっているわけではない。語り手による要約ということか。途中で時間が三十年も飛んだりもする(p119)。そして最後のほうで二度ほど地の文に「私」が出てくる(p134)。語りを着地させる手法として意図的に書き込まれたのかもしれないが、これは誰なのだろう?
 いわゆる〈川の怪物〉が登場する作品だが、この怪物には名前がない。無理に命名しないほうがリアルな場合もあるけど、この作品では『ネクロノミコン』も参照されているわけだし名前があってもよかったのではとも思う。
 型は「ダンウィッチの怪」と同様で《召喚型》。

「昆虫軍、シャッガイより来る」。〈シャッガイ〉が惑星の名になってる。これがリン・カーターなどにも踏襲されたわけだが、もとはラヴクラフトの「闇をさまようもの」の作中作タイトルと考えると、この名は何か怪物のようなものの名のほうが面白かった気がする。なぜかを説明するのは難しいが。
 ストーリーは人類と異なる種族の年代記が語られ、最後により恐ろしい存在が暗示されるというもので「時間からの影」と似てると思う。解説によるとキャンベル自身は「狂気の山脈にて」を意識したらしいが。
 型は《神殿型》か。

「ヴェールを剥ぎ取るもの」。この作品は雨の中で二人の男がタクシーに相乗りする場面からはじまるが、ここの雰囲気が上手いと思う。まだ十代でこんな場面が書けるなんてキャンベル君、ただのクトゥルー好きじゃない作家としての資質を感じてしまう。本書では『グラーキの黙示録』がここで初登場。
 で、ダオロスを呼び出すと、普段見えている現実とはちがう真の世界が見えるという話なんだけど、そう言ってしまうと、他の作品との整合性で、問題が生じないか心配になる。穏当な解釈にするなら、真の世界が見えるということ自体ダオロスが見せている幻覚とすればいいわけだが。虚淵玄が脚本のPCゲーム『沙耶の唄』とテーマ的には似てる。
 主人公が、ある人物の部屋で異界のものの召喚実験に立ち会うという筋書きはラブクラフトでは「彼方より」と似てる。というわけで型は、《召喚型》。

「湖の住人」。湖畔という舞台が独特の静かな雰囲気。作家(この作品では画家)が創作のためにいわくつきの家に引っ越すというのはカットナーの「セイレムの恐怖」と同様で、言わば「事故物件」モノ。手紙によって事態の進行が語られるのはラブクラフトの「闇に囁くもの」を思わせる。だが、結末はゾンビが徘徊し、器官のゴテゴテついた怪物の出現となると、Z級映画のようなビジュアルが浮かんでしまう。まあ、それも味。
 型は《実現型》。《実現型》はわりと何でも当てはまってしまうんだけど。怪物に物理的に攻撃されるという意味では《猟犬型》にも近いけど、これは追われるというニュアンスがないので弱い。

「奏音領域」。これは映画にしたら面白いと思った。ずーっとメチャクチャなノイズが鳴ってるっていう。クトゥルー神話の短編は、舞台が山小屋一つとか低予算でできそうながら宇宙的な奥行きのある話が多いので、原作の雰囲気を生かして映像にしてほしい。
 この作品はカクヨムの文章では《暗示型》の範例にしたけれど、人が失踪するわけではないので、完全にはあっていない。けれど、「闇に囁くもの」が静かなイメージの作品であるのに対して、騒々しいイメージという対称性があり、結局、何が起こったのかよくわからない、暗示だけがある、ということで《暗示型》でよしとした。

「魔女の帰還」。この作品はより「セイレムの恐怖」と似てる。元ネタにラヴクラフトの「魔女の家の夢」があるにせよ、主人公が作家というところまで同じで。いづれも事故物件モノ。「セイレムの恐怖」は召喚の方法にトリッキーな独自性がある《召喚型》なのだが、これとくらべると本作は、とくにこれというアイディアもなく雰囲気だけと思える。せめて『グラーキの黙示録』への言及を一行で済まさず、引用などしてくれれば。型は精神をあやつられる《神殿型》。

「ユゴスの坑」。異星への旅が描かれているのだが、そのわりにはあっさりした感じ。名前不明の緑色に輝く怪物はなかなか迫力がある。これが主人公を追ってくれば「ダゴン」のような《猟犬型》だったのだが。ユゴスから戻った主人公は身体が変質している。といって「インスマスの影」のような《血族型》ではない。ユゴスへと導かれているので《神殿型》か。

「スタンリー・ブルックの遺志」。「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」の超短縮版といった趣の作品。しかし少々納得できない点がある。スタンリー・ブルックは一度死んで復活したが、皮膚が白くなっただけで外見が同じままなら、なぜ名前を変える必要があったのか? しばらく姿を隠して再生後、同一人物として帰ってくれば遺産の問題で揉めることもなかったのに。
 そして、弁護士のボンドはなぜコリア―を殺したのか? 邪悪な存在であることに気づいたから、だとしても、何がきっかけでそれに気づいたのか? その説明がないので結末が唐突に感じる。
 型がどうこういう作品でもないが強いて当てはめるなら《実現型》。復活に使った蛆が異界のものなら《召喚型》とも言える。

「ムーン=レンズ」。交通機関のトラブルで見知らぬ土地で一泊することになるという設定で「インスマスの影」と同系の作品。結末は「ユゴスの坑」と同様に主人公の身体が変質しているというもの。この怪しい土地へ行って戻ると身体が変質しているというパターンがキャンベルの得意な型なのではないか。ラヴクラフトで言えば(E・ホフマン・プライスとの合作)「銀の鍵の門を超えて」がこの〈身体変質型〉だった。
 「ハイ・ストリートの教会」も私が誤読したキノコ人間の結末なら、この型だった……

 この第一巻の中で好きな作品を一つ上げるなら「湖の住人」かな。ほかの作品もそれぞれ良いが。
 この巻の作品はすべて過去の翻訳で読んでいたが、やはりまとめて読むと全体の発展や傾向がわかってよかった。
 二巻の感想はまた後日。