文学フリマ東京34

 第34回文学フリマ東京に出店します。2022年5月29日開催。

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 ブースは【ケ‐24】、サークル名「地下石版」です。


 今回持っていく本は、

『真夜中のアウトサイダー/ガロス=レー』(定価800円)
「真夜中のアウトサイダー」は、ポーの「赤き死の仮面」をオペラ化しようとしている作曲家からの依頼で、私立探偵が失踪したジャズ・ミュージシャンについて調べる話。
「ガロス=レー」は、オカルト雑誌編集者とラノベ作家のコンビが、小説やゲームなど複数の作品にあらわれる〈ガロス=レー〉という名称の謎を追う話。
『水晶の中の銀河/月の庭園』(定価700円)
 この二作は《髑髏水晶の魔女》と呼ばれる占い師・蒼井水緒がゴーストハンター的な活躍をする連作(この主人公のシリーズはいつか再開したい)。
『何かが俺を呼んでいる/電気椅子奇譚/猫の墓場』(定価800円)
「何かが俺を呼んでいる」は、宗教団体の教祖の暗殺を依頼された殺し屋の話。
電気椅子奇譚」は、アドルフ・デ・カストロの「電気処刑器」を元ネタにした私立探偵もの。
「猫の墓場」は、子猫と一緒に死んだ殺し屋が、猫の霊によって復活させられ殺した相手への復讐を命じられるという話。


 新刊はありません。
 あと、大和屋竺の殺し屋映画研究本『暗殺のポルノ』は前回で完売しました。この本は書き直したい部分があるので、いずれ改訂版として再刊する予定です。

『グラーキの黙示』2

 前回のつづきでラムジー・キャンベル『グラーキの黙示』第2巻の感想です。
(注:ネタバレしています!)

 まず「島にある石」から。これは1964年発表なので、ラヴクラフト模倣期の一巻に入れてもよかったはずだが、読んでみると二巻の文体実験期に位置付けても違和感はない。
 親族の死による遺品の調査からはじまるので、これはキャンベル版の「クトゥルーの呼び声」か、と思いきや、後半は心霊譚的になる。出だしの期待感の割に
神話作品としては物足りない。型は《猟犬型》ですね。

「嵐の前に」。文体実験が最も全面化した作品。ウイリアム・S・バロウズの影響を受けているそう。これだったらラヴクラフト模倣のほうがいいなと思いながら読んでいたが、読み終わってみたら面白かった。高橋洋的な感じがする。『リング2』か、何なら『霊的ボリシェヴィキ』のような狂気が不条理に伝染していく感じ。型はよくわからない、しいて言えば《実現型》かな。

「コールド・プリント」。「嵐の前に」と比べるとまともになっているが、文体はかなり幻惑的。エロ本を買いに行ったらヤバいところへ迷い込んでしまうという展開が何か楽しい。作中で本のタイトルがたくさん出てくるのと、全体の構成は「闇をさまようもの」に近いと思う。しかし型は主人公のほうが引き寄せられるので《神殿型》。

「フランクリンの章句」。外枠の語り手がキャンベル自身で、彼が架空の小説家について語るという構成なのだが、それは余計なもののように感じられる。本にあらわれるメッセージと棺へ迫る魔物の話で十分だったのではないか。それをあえて入れ子状に複雑化させたのは、もはやパルプ的な怪奇小説では飽き足らないということかと思う。型は、フランクリンにとっては《猟犬型》で、アンダークリフとキャンベルにとっては《暗示型》。この作品、オカルトマニア的探索や埋葬された不死者などで「魔犬」とイメージ的に似てる気がする。あとタイトルは「地を穿つ魔」でもよかった。

「窖からの狂気」。スミス風の異世界もの。語りだしからオチまでうまくまとまっていて、ボルヘス的な構成美すら感じる。ポーの「アモンティリアードの酒樽」と似ているが、罠のスケールが大きい。型は、《猟犬型》ともいえるが、神が仕掛けた罠なので《神殿型》に分類したい。
 
「絵の中に描かれていたもの――」。幻想的な絵の説明がえんえんと続く。いわば文字で書かれた画集。これも実験作の一つだろう。「ピックマンのモデル」と関連しているとも言える。

「誘引」。主人公が見ている夢と同じ題材の絵があり、さらに父も同じ夢を見ていて、という話で「クトゥルーの呼び声」に対抗した作品と思われる。その一方で、地球に接近する謎の惑星も描かれて独特のスケール感がある。だが父子の見た夢は何だったのか。ストーリーからすれば、劇場にある望遠鏡の夢らしいが、ならばアトランティスを描いたという絵との関係は? 型は、劇場へ引き寄せられていく《神殿型》でもあるし、夢の実現という《実現型》でもある。あと『グラーキの黙示録』の出し方が、実在のものらしい書物を数冊挙げて、そこへ自作の魔道書を紛れ込ませるというラヴクラフトの「魔宴」や、ブロックの「奇形」で使われていた手法だった。

「パイン・デューンズの顔」。この辺から実験的というよりは普通にうまい小説になってる感。型は、ここへきて初の《血族型》。キャンベルの作風にはじつは《血族型》が合ってるとおもうのだが。主人公が真の血筋を知りテンションが上がる場面は「インスマスの影」を思わせる。

「暗転」。作者はクトゥルー神話のつもりで書いたわけではないということだが、蝋燭に囲まれた教会は「闇をさまようもの」を、村中の人間が教会に集まる場面は「魔宴」を思わせる。ドイツを舞台にしたこともいい効果になっている。主人公が追われることになるきっかけが不明だが、背景を想像するなら、教会にトラペゾヘドロンがあって村人はニャルラトテップに生贄を捧げる契約を結んでいる、とか。ニャルもここでは自力で蝋燭を消せるぶん強くなってる。型は、「窖からの狂気」と同様、表面上は《猟犬型》だが、それ以前に罠にかけられているニュアンスがあるので《神殿型》にしたい。結末で、なぜか車が移動させられているという展開があるが、これが意味不明に思える。ショックよりもサスペンスを高めて終わる手法か。

 最後「砂浜の声」。砂浜にあらわれる模様(パターン)が精神に影響を与えるというメインアイディアは面白い。が結末がやや冗長。そして神話用語なしはさびしい。無理に入れる必要はないが、廃村で文書を見つけるという流れがあるのなら、そこで『グラーキの黙示録』でも、クトゥルーについての手記でも出せたのではないか。型は、よくできた《暗示型》。

 全体の感想。「ムーン=レンズ」と「パイン・デューンズの顔」で「インスマスの影」に、「湖の住人」と「砂浜の声」で「闇に囁くもの」に、というふうにそれぞれ補完関係にあるのではないか。つまりキャンベルはラヴクラフト作品を基本設定と結末に分けて使っている。初期作品では、基本設定を流用しつつ、舞台をブリチェスターに変えてストーリーを展開した。だがそれで、結末まで同じにしてしまうと、いかにも同じ話になってしまう。そこで無理にも違う結末をつけた。そのため、どこか微妙に破綻したような話になった。
 本書第二巻の頃ではそれが、オリジナルのストーリーを展開しつつ結末のつけ方で、ラヴクラフトと同じ地点を目指した。そのことでオリジナリティーもありつつ、安定した神話作品を書けるようになった。というふうに思う。

 第二巻で好きな作品を上げると、バランスの良さということでは「コールド・プリント」や「パイン・デューンズの顔」だが、大胆さ、無茶さも含めて好きな作品はというと一位が「誘引」、二位が「嵐の前に」。
 これと第一巻で好きな「湖の住人」を合わせてベストスリーということで。



 次はカットナーの作品集が読めるぞ、と思っていたが、もう売り切れだった……

『グラーキの黙示』1

 ラムジー・キャンベル『グラーキの黙示』1,2巻を読んだ。
 まずは第1巻、各話の感想を。
(注:ネタバレしています!)
 尚、文中で《猟犬型》とか《神殿型》とかいう用語を使っていますが、これは私が考えたクトゥルー神話の六つの分類で、くわしくはカクヨムの方に書いたので、まずは以下のリンク先を参照していただきたい。
神話製造器(小倉蛇) - カクヨム

 最初の作品が「ハイ・ストリートの教会」。序文にあたる「未知なるものを追い求めて」には「墓の群れ」というこの作品の原形の文章が一部紹介されている。これがパロディ的とも思える過剰なゴシック文体でなかなか面白そう。できれば全文読みたい。この時点ではキングズポートが舞台で、つまりは「魔宴」と関連した作品だったのだ。それをダーレスの指示に従って直したものが現行の作品。
 この作品は私は『インスマス年代記』で読んでいたけど、今回あらためて読んでみて内容を誤解していたことに気づいた。というのは、結末で主人公が教会から帰ってくると全身にキノコが付着しているという描写があるので、そうか教会へ行った者はキノコ人間になってしまうのか、と思っていた。ホジスンの「夜の声」のように、つまり『マタンゴ』だと。だがよく読んでみるとキノコは単に付着と書いているだけで、人体が変質したわけではないらしい。
 しかしだとするとこの小説、教会へ引き寄せられるだけで、中核となる怪異が欠けているように感じてしまう。何か怪物が潜んでいるとかそういうのが。
 ただ、神話用語の入れ方はうまいと思った。失踪した友人の知り合いに会うと、この人物がたたみかけるように用語を使って語る。
 型について。教会に引き寄せられるという話なので《神殿型》。あと、友人の失踪を描いているので《暗示型》の要素もあるけど、その友人がもともと登場していないのでこちらは弱め。

 次が「城の部屋」。わりと単純なプロットをじっくり書き込んでいる感じが良い印象。怪物の見せ方はリン・カーターの「奈落の底のもの」と似てる。ガソリンで解決するのはちょっと物足りない気もする。型は、伝説と思われたものが実在するという話なので《実現型》。

「橋の恐怖」。解説でも述べられているがキャンベル版の「ダンウィッチの怪」といった作品。怪しい人物が大英博物館で『ネクロノミコン』を読んでいるのを司書が背後から覗いたりする。
 文章は、チェスタートンという人物の手記を書き写したものということ(p101)だが、主語がチェスタートン=「私」になっているわけではない。語り手による要約ということか。途中で時間が三十年も飛んだりもする(p119)。そして最後のほうで二度ほど地の文に「私」が出てくる(p134)。語りを着地させる手法として意図的に書き込まれたのかもしれないが、これは誰なのだろう?
 いわゆる〈川の怪物〉が登場する作品だが、この怪物には名前がない。無理に命名しないほうがリアルな場合もあるけど、この作品では『ネクロノミコン』も参照されているわけだし名前があってもよかったのではとも思う。
 型は「ダンウィッチの怪」と同様で《召喚型》。

「昆虫軍、シャッガイより来る」。〈シャッガイ〉が惑星の名になってる。これがリン・カーターなどにも踏襲されたわけだが、もとはラヴクラフトの「闇をさまようもの」の作中作タイトルと考えると、この名は何か怪物のようなものの名のほうが面白かった気がする。なぜかを説明するのは難しいが。
 ストーリーは人類と異なる種族の年代記が語られ、最後により恐ろしい存在が暗示されるというもので「時間からの影」と似てると思う。解説によるとキャンベル自身は「狂気の山脈にて」を意識したらしいが。
 型は《神殿型》か。

「ヴェールを剥ぎ取るもの」。この作品は雨の中で二人の男がタクシーに相乗りする場面からはじまるが、ここの雰囲気が上手いと思う。まだ十代でこんな場面が書けるなんてキャンベル君、ただのクトゥルー好きじゃない作家としての資質を感じてしまう。本書では『グラーキの黙示録』がここで初登場。
 で、ダオロスを呼び出すと、普段見えている現実とはちがう真の世界が見えるという話なんだけど、そう言ってしまうと、他の作品との整合性で、問題が生じないか心配になる。穏当な解釈にするなら、真の世界が見えるということ自体ダオロスが見せている幻覚とすればいいわけだが。虚淵玄が脚本のPCゲーム『沙耶の唄』とテーマ的には似てる。
 主人公が、ある人物の部屋で異界のものの召喚実験に立ち会うという筋書きはラブクラフトでは「彼方より」と似てる。というわけで型は、《召喚型》。

「湖の住人」。湖畔という舞台が独特の静かな雰囲気。作家(この作品では画家)が創作のためにいわくつきの家に引っ越すというのはカットナーの「セイレムの恐怖」と同様で、言わば「事故物件」モノ。手紙によって事態の進行が語られるのはラブクラフトの「闇に囁くもの」を思わせる。だが、結末はゾンビが徘徊し、器官のゴテゴテついた怪物の出現となると、Z級映画のようなビジュアルが浮かんでしまう。まあ、それも味。
 型は《実現型》。《実現型》はわりと何でも当てはまってしまうんだけど。怪物に物理的に攻撃されるという意味では《猟犬型》にも近いけど、これは追われるというニュアンスがないので弱い。

「奏音領域」。これは映画にしたら面白いと思った。ずーっとメチャクチャなノイズが鳴ってるっていう。クトゥルー神話の短編は、舞台が山小屋一つとか低予算でできそうながら宇宙的な奥行きのある話が多いので、原作の雰囲気を生かして映像にしてほしい。
 この作品はカクヨムの文章では《暗示型》の範例にしたけれど、人が失踪するわけではないので、完全にはあっていない。けれど、「闇に囁くもの」が静かなイメージの作品であるのに対して、騒々しいイメージという対称性があり、結局、何が起こったのかよくわからない、暗示だけがある、ということで《暗示型》でよしとした。

「魔女の帰還」。この作品はより「セイレムの恐怖」と似てる。元ネタにラヴクラフトの「魔女の家の夢」があるにせよ、主人公が作家というところまで同じで。いづれも事故物件モノ。「セイレムの恐怖」は召喚の方法にトリッキーな独自性がある《召喚型》なのだが、これとくらべると本作は、とくにこれというアイディアもなく雰囲気だけと思える。せめて『グラーキの黙示録』への言及を一行で済まさず、引用などしてくれれば。型は精神をあやつられる《神殿型》。

「ユゴスの坑」。異星への旅が描かれているのだが、そのわりにはあっさりした感じ。名前不明の緑色に輝く怪物はなかなか迫力がある。これが主人公を追ってくれば「ダゴン」のような《猟犬型》だったのだが。ユゴスから戻った主人公は身体が変質している。といって「インスマスの影」のような《血族型》ではない。ユゴスへと導かれているので《神殿型》か。

「スタンリー・ブルックの遺志」。「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」の超短縮版といった趣の作品。しかし少々納得できない点がある。スタンリー・ブルックは一度死んで復活したが、皮膚が白くなっただけで外見が同じままなら、なぜ名前を変える必要があったのか? しばらく姿を隠して再生後、同一人物として帰ってくれば遺産の問題で揉めることもなかったのに。
 そして、弁護士のボンドはなぜコリア―を殺したのか? 邪悪な存在であることに気づいたから、だとしても、何がきっかけでそれに気づいたのか? その説明がないので結末が唐突に感じる。
 型がどうこういう作品でもないが強いて当てはめるなら《実現型》。復活に使った蛆が異界のものなら《召喚型》とも言える。

「ムーン=レンズ」。交通機関のトラブルで見知らぬ土地で一泊することになるという設定で「インスマスの影」と同系の作品。結末は「ユゴスの坑」と同様に主人公の身体が変質しているというもの。この怪しい土地へ行って戻ると身体が変質しているというパターンがキャンベルの得意な型なのではないか。ラヴクラフトで言えば(E・ホフマン・プライスとの合作)「銀の鍵の門を超えて」がこの〈身体変質型〉だった。
 「ハイ・ストリートの教会」も私が誤読したキノコ人間の結末なら、この型だった……

 この第一巻の中で好きな作品を一つ上げるなら「湖の住人」かな。ほかの作品もそれぞれ良いが。
 この巻の作品はすべて過去の翻訳で読んでいたが、やはりまとめて読むと全体の発展や傾向がわかってよかった。
 二巻の感想はまた後日。

ラヴクラフトとイドの怪物 ――あるいはクトゥルー神話のハムレットたち

 ダニエル・ハラー監督がラヴクラフト原作を映画化した二作『襲い狂う呪い』『ダンウィッチの怪』がいずれもイドの怪物型のストーリーになっていた、ということを前回までで述べた。
 だとすると、ラヴクラフト自身の作品におけるイドの怪物テーマはどうなっているのか? それを考えてみたい。
 とはいえ、ざっと振り返ってみても、これという作品は思い当たらない。
 ラヴクラフトとイドの怪物は元来、無縁なものなのだろうか。
 いや、逆のパターンならある。
 イドの怪物テーマとは、人間が(無意識のうちに)怪物をあやつっているという型の話だ。その逆というのはつまり、人間が怪物によってあやつられるという型である。
 この型、有名な古典作品ではシェイクスピアハムレット』がそうだ。ハムレットは父親の幽霊にあやつられている。
 『ハムレット』の例は現実的に言えば、父親の影響が強いという話だが、ラヴクラフト作品では、「壁のなかの鼠」では一時的な錯乱、「魔女の家の夢」では夢遊病という形で異界のものにあやつられる主人公が描かれている(あと「神殿」とか)。
 ここからさらに発展したものとして「戸口にあらわれたもの」や「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」の精神交換による身体の支配というテーマにつながっていく。
 そして「クトゥルーの呼び声」で、ルルイエが浮上した際にクトゥルーが世界中の狂人や芸術家に影響を及ぼすという設定も、こうしたテーマの拡張として位置づけられる。その映画的表現が、以前に取り上げた『マウス・オブ・マッドネス』や『オカルト』ということになるのである。

(追記――後で考えたら「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」は精神交換の話ではなかった。いずれにしろ身分を乗っ取られることにはなるが。精神交換と言えば「時間からの影」もあるが、これは交換の過程があまりに一瞬であやつられるという葛藤がない気がしたので挙げなかった。あとついでに、最近見た東映の「【怪獣区】ギャラス」という短編ドラマがイドの怪物型ともいえる話だった。)

『ダンウィッチの怪』について

 (ネタバレしています。)
 ダニエル・ハラー監督による、もう一つのラヴクラフト原作映画が『ダンウィッチの怪』。
 怪しげな儀式が描かれたオープニングに続いて、ウイルバー・ウェイトリーが図書館ヘ『ネクロノミコン』の貸し出しを求めてやってくるところからはじまるこの作品、雰囲気は異なりながらながら原作の要点は押さえている感じで、シミュラクル的というか、いい意味で原作とは似て異なるものになっている。
 ただ一方で、初見の印象では、中途半端にいじったせいでストーリーをまとめ切れていないようにも思った。例えばウイルバーの兄弟である怪物は、最後どうなったのか、とか。
 しかしこれはあくまで初見の話で、何か見落としているような気がして見直してみたところ、じつはよくまとまっているのだとわかった。
 それというのは、なまじ原作の知識があったため最後の方で、ウイルバーが呪文を唱えているのはヨグ=ソトースの召喚をしているのだ、と思い込んで見てしまったことに原因があった。作中でもアーミテイジ博士の「ウイルバーは超古代の存在をよみがえらせようとするはず」といったようなセリフがあり、それでミスリードされたということもある。
 あの儀式が行われた丘の上で赤い煙の中に一瞬だけ姿を見せたものが、私はヨグ=ソトースの本体だと思ったのだが、よく見るとあの外形はウイルバーの兄弟である怪物、つまり落とし子のほうらしい。つまりあれは召喚されたというよりは怪物が異界へ去ったという描写ではないか。
 そしてこの映画は最後、生贄にされた女性が妊娠していることの暗示で終わる。これはアーミテイジ博士の「これでウェイトリー家は滅んだ」というセリフの後で明かされるので、なかなか衝撃的である。
 しかし彼女はいつ妊娠したのか。彼女はウイルバーと図書館で出会って以降、彼に興味を持ちしばらく行動を共にしているので、その間に性交渉があったと考えられなくはない。ただ、それだと儀式の意味がわからなくなる。
 あの儀式は何なのか。ウイルバーのあげる呪文に注目すると「血を分けた兄弟よ出でよ」と言われるとともにドアが破られ怪物が外へ飛び出す場面がある。そして怪物が村の人々を襲う間、ウイルバーは呪文を唱えつづけている。つまりあの呪文は、怪物をコントロールするためのものではないか。
 そして怪物に人々を襲わせたのは精気というか生命エネルギーを集めるのが目的だったのかもしれない。スペースバンパイアのように。その集めたエネルギーによって生贄の彼女を妊娠させた。
 たぶんウイルバーの最終目的は旧支配者の復活といったことだったのかもしれないが、星の配置がそろわないとか、そうした理由で、次世代に望みを託す、という選択をしたのではなかろうか。
 最後、ウイルバーは雷に撃たれて死ぬ。ここはちょっと唐突だが、その前の場面でウイルバーとアーミテイジ博士が向き合って互いに呪文をかけ合っている。その時のアーミテイジ博士の呪文の効果が落雷だったとも考えられる。つまり雷を召喚したわけだ。そうだとするとここはオーガスト・ダーレスの、ニャルラトテップに対抗してクトグァを召喚する「闇に棲みつくもの」と似てる感じもある。

 あと前回ダニエル・ハラー監督の『襲い狂う呪い』をイドの怪物テーマとして論じたけれど、この映画『ダンウィッチの怪』も、ウイルバーを変人扱いした村の人々を怪物が襲っているわけで、やはりイドの怪物型の話として見ることができる。

 「ダンウィッチの怪」とイドの怪物と言えば、PHP研究所のコミック版『ダンウィッチの怪』の解説を東雅夫が書いているが、その中に以下のような引用がある。

何度も何度も劇団にいる貞子の行動を考えているとき……最終的に脚本には使っていないんですが……表向きの父親である伊熊平八郎に電話をかける芝居を書いてみたんですよ。“私は元気よ。ところで妹は元気なの?”みたいなセリフを貞子がふと言ったらどうだろうって思った途端、勝手に手が書いちゃったんです。そしたら“それ怖い”って感じたんです(笑)。その妹は、伊熊博士の井戸のある屋敷の奥深くに幽閉されているんだろうなって頭に浮かんできて、監督の鶴田さんにプロットを見せたんです。鶴田さんは、妹の存在にゾクッときたと。それでラヴクラフトの『ダンウィッチの怪』が見えてきたんですよ。

(引用元は『リング0恐怖増幅マガジン The貞子』の「高橋洋インタヴュー」)

 この発言は映画『リング0~バースデイ』についてのものである。
 この映画『リング0』では、貞子は大人しい普通の若い女性で劇団員である。しかし貞子にとって邪魔な人物が、霊的な白い服の少女によって殺されていく、という内容で、やはりイドの怪物テーマと言える。
 貞子の周囲で次々に事件が起こるため、結局彼女が疑われ劇団員たちに殺されてしまう。
 一度は死んだかに見えた貞子だが、その後復活する、そして邪悪な霊的存在である妹と合体し、劇団員たちに復讐をする。
 伊熊博士は言う「貞子は母親似だが、もう一人は父親似だった」と。
 最後は伊熊博士の手で井戸に突き落とされ終わる。つまり一作目『リング』へとつながるラストである。

 前回『襲い狂う呪い』をイドの怪物テーマの良心的解決と述べたが、今回の二作の映画『ダンウィッチの怪』と『リング0~バースデイ』は同じイドの怪物テーマでも、悪の側に着地した結末と言えるだろう。

『襲い狂う呪い』について

 ダニエル・ハラー監督の『襲い狂う呪い』は主演がニック・アダムスだ。
 このヘミングウェイの小説と同名の俳優は、東宝特撮映画『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』や『怪獣大戦争』にも出演している。
 公開はどれも1965年で、当然、同じ顔。なのでアーカム駅に降り立つニック・アダムスは今にも納谷悟朗ボイスで話し出しそうに見える。

 『襲い狂う呪い』には、もう一人、有名な怪奇俳優ボリス・カーロフも出てる。
 この人のことを私は、普段からあの『フランケンシュタイン』の怪物みたいな顔なのかなと思っていたのだけど、じつは画像を見ると内藤陳みたいなシャープな顔立ち。あの怪物はメイクで盛っていたんですな。
 それから三十年以上たったこの映画では、だいぶお爺ちゃんになっているが、全身銀ピカの怪物演技も披露している。
 『対地底怪獣』のフランケンシュタインも当然、ボリス・カーロフを意識したメイクなので、この二作は言わば《ボリス・カーロフ対ニック・アダムス》二部作となっているのだ。

 ところで、町山智浩が下の動画で、本多猪四郎監督による『ゴジラ』で東京を破壊するゴジラは、平田昭彦が演じる芹沢博士の深層心理あるいは怨念が実体となって暴れているかに見える、というようなことを言っている。

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 これは言わばゴジラが芹沢博士の〈イドの怪物〉や〈オルター・エゴ〉であるということだと思う。上の動画の中でも、じっさいイドの怪物が出てくる映画『禁断の惑星』を同じ型として論じている。

 『フランケンシュタイン対地底怪獣』についてもそうした見方ができる(町山はフランケンシュタインと芹沢博士を重ね合わせた見方を語っているが)。
 ニック・アダムスのイドの怪物がフランケンシュタインで、高島忠夫のイドの怪物がバラゴンである。つまり二人のイドの怪物同士が対決しフランケンシュタインの方が勝つという話である。
 これはアメリカ的精神と日本的精神の戦い、ということではないか。そしてアメリカが勝つ。日本は占領され、文化的にも侵略される。
 だがでは、最後に唐突に出現し、フランケンシュタインを湖へ引き込む大ダコは何なのか?
 主要人物の残りの一人、水野久美のイドの怪物なのではないか。この映画にはフランケンシュタインが地割れに飲まれ終わるというもう一つのヴァージョンも存在するが、それも同じことで、要するに女性原理を表していると見られる。
 つまり『フランケンシュタイン対地底怪獣』では古い伝統的な日本精神と新しいアメリカ精神が争い、一時はアメリカが勝利するが、それが全面化したわけではなく、結局、女性原理に飲み込まれた、というこの国の戦後史が象徴的に描かれているのではなかろうか。

 で、本題『襲い狂う呪い』。
 これはラヴクラフトの「宇宙からの色」が原作。
 宇宙から飛来した隕石から異様な色彩が発生する、という基本設定は同じだが、この映画では色彩は実験室の中に閉じ込められ、その館の中で起こる怪異を描いている。
 この映画もやはりイドの怪物をテーマとした作品として見ることができる。
 というか、じつは『禁断の惑星』とそっくりという気がする。
 年老いた科学者が若い娘とともに暮らしているところへ、ある青年があらわれる。娘と青年は愛し合っている。怪物があらわれ二人の仲を邪魔する。怪物の危険を認識した科学者は若い二人を逃がし、自分は怪物とともに自滅する。
 『禁断の惑星』と『襲い狂う呪い』いずれもこんな話である。
 『襲い狂う呪い』では、黒衣でベールをつけた召使の女がイドの怪物で、宇宙からの色に精神を乗っ取られていたのだろう。彼女は途中で身体が溶解してしまうが、その後再度、黒衣の女があらわれる。これはたぶん科学者の妻である。

 そんなわけで、『ゴジラ』『禁断の惑星』『襲い狂う呪い』など、怪物を生み出した(かに見える)人物が自分の悪い無意識を受け入れ、怪物とともに自滅、そのことで若いカップルを祝福する、というのがイドの怪物テーマの言わば良心的解決なのである。

『オカルト』について

 今回はクトゥルー神話関連の日本映画では一番気に入っている『オカルト』について。
 これは白石晃士監督作のフェイクドキュメンタリー。
 『ほんとにあった!呪いのビデオ』『ノロイ』を経て、真面目にやってるんだけど笑える独特のノリがこの作品で完成の域に達しVシネマのシリーズ『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』へとつながっていく。
 内容は、観光客がまわしていたビデオ映像に通り魔殺人が写りこむのがはじまり。その事件を本人役の白石監督自身がドキュメンタリーとして取材していく。
 当初は普通に事件関係者にインタビューしていくが、犯人に刺され複雑な図形の傷を負った江野という男から事件後、毎日奇跡が起こっているという話を聞いたのをきっかけに、この人物に密着していくこととなる。
 ネットカフェ難民だった江野は、白石の属する制作会社のスタッフルームに寝泊まりすることになり、その日常が記録されていく。江野の身辺ではじっさい怪奇現象が起こっており、さらには何かヤバい計画を秘めていることが次第に明らかになっていく――といったもの。

 この作品がクトゥルー神話関連と見做されるのは九頭呂岩(くとろいわ)というものが登場するからだ。この場面はじっさいに霧の立ち込めるどこかの山中にある巨大な岩をロケ撮影していて、なかなか迫力がある。
 しかし、この岩の物語内での役割ははっきり説明されているわけではない。
 作中に登場する九頭呂岩の研究家で映画監督の黒沢清なる人物は「ヒルコを祀っているのでは」と述べる。だから江野が目撃する宙に浮いたミミズの影のようなものはヒルコのイメージなのかもしれない(『ノロイ』には霊体ミミズというのが出てきたが)。
 岩のある山が御昼山(おひるやま)というのもヒルコに由来するのだろう。
 では「九頭呂」という名称はどこから来たのか。やはりクトゥルーだろうか?

 ところで、じつは後の『コワすぎ』の中でもこの「クトロ」という語に言及している場面がある。それはシリーズ五作目『劇場版・序章【真説・四谷怪談 お岩の呪い】』で。アシスタント市川がお岩の呪いにかかり、道玄という霊能者に除霊をしてもらうことになる。その間、彼女は水槽に片手を漬けて奇声を発しつづけるのだが、そこで「クトロ、クトロ」と言っている部分がある。
 これは道玄の「お前をあやつっているのは誰だ?」という質問に答えるように言われている。だが、道玄も工藤もクトロについては知らないらしくとくに追及はされない。
 ともかく、この部分に注目すると、口裂け女やお岩といった都市伝説や怪談にあらわれる怪異存在を、影であやつっているものとしてクトロがいる、という世界が想像できる。

 翻って『オカルト』においても、通り魔事件の犯人や江野、それに記録係としての白石もやはりクトロによってあやつられていた、ということになるのではなかろうか。
 こう考えると、前回取り上げた『マウス・オブ・マッドネス』と構造的に似ている気がする。
 海底か異次元かどこかにクトゥルーのような邪神が存在し、その影響を受けた人間が殺人狂と化す、という世界観である。
 ラヴクラフトの「クトゥルーの呼び声」は、海底の造山活動によりルルイエが浮上した時のみ、芸術家や狂人など感性のするどい者がその影響を受けるという話だった。
 だが上記二つの映画では、クトゥルー的な異界の存在が人間をあやつる際に、触媒というか中継器のようなものを介している。
 その中継器の役を担っているのが『マウス・オブ・マッドネス』ではサター・ケーンの小説であり、『オカルト』では九頭呂岩なのである。

 神話的事件の中心に岩があるというのは、ロバート・E・ハワードの「黒い石」を思わせもする。白石監督はこれを参考にしたのかな、とも思ったが、下の動画によると監督、ラヴクラフトですら「彼方より」と「死体蘇生人」しか読んでないらしい……

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