高橋洋監督・脚本の映画『ザ・ミソジニー』を見た。
それでいろいろ考えたことがあるので書いておこうと思う。
まずわかりやすい解釈をかくと――、
この映画は、ある劇作家がテレビでたまたま見た怪奇映像を題材にして創作をしようとしている。
そのなかなかまとまらない創作の過程、つまり作家の脳内をそのまま描いたもの、だと思う。
いわば《創作オチ》といったもの。押井守でいえば「迷宮物件File538」のような。
ただそれは、とりあえず与えられた枠組みというべきで、問題は中身である。
しかしその中身は、二人の女がわけのわからない闘争をつづけているというもので、説明はむずかしい。
それでも思い返してみて、面白いと感じたのは、そもそもの発端がテレビのオカルト番組で流された怪奇映像であるという点だ。
それは、気の狂った女が森の中へ走って行って、土の色が変わったところで唐突に消えるというもので、のちにユーチューブにアップされていた時にはその部分はカットされていた。何か問題があって再放送時にカットされたのだろうと映画の中では説明される。
しかし冷静に言って、件の映像はこの種の番組の常でテキトーにでっち上げられたものではないか。ユーチューブになかったのも、うp主の気まぐれかもしれない。つまりナンセンスな断片にすぎない。
この映画の二人の女はナンセンスに呪われている。
ナンセンスに呪われた二人の女、というフレーズを思いついてみると、高橋洋の過去の作品はこの〈ナンセンスに呪われた二人の女〉をくり返し描いてきたことに気づく。
『ソドムの市』では、二人の女、テレーズとマチルダは呪術を使ったことを疑われるが、その証拠の針を刺された人形は老婆の針刺しだった。
『狂気の海』は、そもそもの語り始めがのムー帝国の末裔であるというトンデモ史観のもとで、首相夫人とFBIの女の戦いが描かれる。
『旧支配者のキャロル』は、傲慢な大女優を主演に女子学生が監督することになったのはサイコロで選ばれた企画である。
そして『霊的ボリシェヴィキ』は、子供の頃に神隠しに会った女と女霊能者が怪談バトルをする話だ。
こうして並べると、まるで『ソドムの市』のテレーズとマチルダが時空を超えて転生をくり返しながら、それぞれの舞台で闘争をつづけているかに見える。『ザ・ミソジニー』がその最新バージョンというわけだ。
ところで高橋の監督作には『恐怖』という作品もある。
これが私にとっては気になる映画で、折に触れてアレは何だったのか、と思い返していたのだが、どうもうまく全体像をつかめずにいた。
それが今やこの〈二人の女の闘争〉というモチーフを得たことで話の骨格がクリアになった。
今までは〈霊的進化〉という意味ありげな題材に気を取られすぎていたのだ。だがそれだと主要人物である、みゆきとかおりの姉妹の役割がよくわからない。
それもそのはずで、マッケンの「パンの大神」の再現を目指すなら、脳手術を行う医師・間宮悦子と妊娠する処女・理恵子がいれば事足りる(『恐怖』というタイトルもマッケンの中編からの流用だろう)。犯罪サスペンス仕立てにするために人物を加えていったとしても、みゆき・かおり姉妹の位置づけは何なのかで迷ってしまう。
だが、この姉妹は〈闘争する二人の女〉で、こっちのほうがメインだった。〈霊的進化〉は、そのための背景設定として必要とされただけ。
この姉妹は、たまたま深夜に起き出したというだけで満州での人体実験の映画を見てしまい、その光によってナンセンスな闘争をつづける呪いにかかってしまったのだ。
しかし、なぜ女なのか?
たんに監督の嗜好だろうか。それとも何か意味があるのか、よくわからない。
では、男だったらどうなのか。
ナンセンスに呪われ闘争をつづける二人の男……
こう考えると、それはまるで大和屋竺的な世界ではないか。
『殺しの烙印』では、重要な狙撃の瞬間にライフルの銃身に蝶がとまったというのが原因で殺し屋・花田はナンバー1との果てしない闘争に陥る。
『荒野のダッチワイフ』では、恋人を殺されたというわかりやすい原因はあるが、ショウとコウ二人の殺し屋の闘争が不条理化するのは、午前三時と午後三時の取り違えというナンセンスな出来事からである。
大和屋竺の殺し屋映画が高橋の重要な参照項であることは言うまでもないだろう。
『荒野のダッチワイフ』にはフィルムに呪われた男が出てくるし、『殺しの烙印』の花田と同様に『ソドムの市』のテレーズも軍用モーゼルの使い手なのである。