窓に! 窓へ! 窓が!

 もう出たのはだいぶ前になるが、新潮文庫の〈クトゥルー神話傑作選〉『狂気の山脈にて』所収の「ダゴン」では、これまでの訳では「窓に! 窓に!」だった最後のフレーズが「窓へ! 窓へ!」になっている。
 窓から逃げるのかな、と私は思っていたのだが、このまとめを読むと、

「とても大きな勘違いをしていた」ホラーでよくある『窓に!窓に!』というセリフは日本と海外では全く違う意味だったらしい - Togetter

「窓へ」と言っているのは、身投げするということらしい。
 この「ダゴン」は過去の出来事の回想を書いていた男が、最後の部分になって怪異が迫ってもなお、リアルタイムの実況を書きつづけるところが面白いところで、「そんなことあるか」とツッコミたくなるところでもあった。
 だが、この文書が遺書であると考えると、最後の最後まで自分の状況を書き残したいという願望はわからなくもない気もする。
 「窓に」の解釈、目の前の窓から怪物が迫っているのに文章を書きつづけているという状態も、書くことでハイになっているかのような不条理感があって、これはこれで捨てがたい。
 何なら「窓が! 窓が!」でもよかったのではないかとも思う。つまり窓が変質して外の景色が変化したという説。あの隆起した無人島とつながってしまったのだ。まるで当時は存在しなかったテレビのように。
 じっさいラヴクラフトのその後の作品でも、窓に異様なものが現れるというモチーフはくり返し描かれている。
 窓辺に立っていた男が顔を抉られる「潜み棲む恐怖」、ガラスに死者の顔が焼き付いているという伝説から異界に通じた窓について語られる「名状しがたいもの」、「神殿」の潜水艦の窓からはアトランティスの遺跡が、「狂気の山脈にて」の飛行機の窓からは凍てつく荒野のカダスが眺められる。そして鏡やレンズも窓の変形と考えるなら、「アウトサイダー」の鏡や「ダンウィッチの怪」の望遠鏡もここに加えることができる。さらには「闇をさまようもの」の主人公ロバート・ブレイクも窓と向き合って死んでいた。おまけにもう一つ、ラヴクラフト&ダーレス名義によるいわゆる死後共作「破風の窓」も、正しく窓越しに怪物が迫ってくる話である。
 遠く隔たったものが間近にあらわれる。それを媒介するのがメディアである。メディアとしての窓。
 「ダゴン」に描かれているのが、テレビのような視覚メディアとしての窓であるとして、同じラヴクラフトの初期作品「ランドルフ・カーターの陳述」では、聴覚メディアである電話が重要な役をはたしている。つまり、この二作は地獄のような異界に通じてしまう視覚・聴覚メディアという一対の作品となっているのである。
 後期の作品では、超科学的あるいは魔術的なメディアが描かれる。「闇に囁くもの」ではユゴス星の金属円筒から(不)死者の囁きが聞こえ、「闇をさまようもの」ではトラペゾヘドロンを通して異界の光景を見る。やはり聴覚・視覚の一対である。
 こうした視・聴覚の一対という発想は、ポーの色彩のドラマ「赤き死の仮面」と音響のドラマ「アッシャー家の崩壊」に遡れるかもしれない。ラヴクラフトにも、色彩が全面化した「宇宙からの色」、音響に焦点化した「エーリッヒ・ツァンの音楽」がある。この二作はラヴクラフト自身のお気に入りらしい。
 だが、異様な光景や音響がメディアを介してあらわれるところに二十世紀人であるラヴクラフトの面目躍如たるものがあるのではないか。

文学フリマ東京35

 文学フリマ東京35に出店します。

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 ブースは【J‐15】、サークル名「地下石版」です。

 今回持っていく本は、

 クトゥルー神話短編二作『真夜中のアウトサイダー/ガロス=レー』(定価800円)
 「真夜中のアウトサイダー」は、ポーの「赤き死の仮面」をオペラ化しようとしている作曲家からの依頼で、私立探偵が失踪したジャズ・ミュージシャンについて調べる話。
 「ガロス=レー」は、オカルト雑誌編集者とラノベ作家のコンビが、小説やゲームなど複数の作品にあらわれる〈ガロス=レー〉という名称の謎を追う話。

 クトゥルー神話ゴーストハンターもの『水晶の中の銀河/月の庭園』(定価700円)
 この二作は《髑髏水晶の魔女》と呼ばれる占い師・蒼井水緒がゴーストハンター的な活躍をする連作。

 ハードボイルド的クトゥルー神話三作『何かが俺を呼んでいる/電気椅子奇譚/猫の墓場』(定価800円)
 「何かが俺を呼んでいる」は、宗教団体の教祖の暗殺を依頼された殺し屋の話。
 「電気椅子奇譚」は、アドルフ・デ・カストロの「電気処刑器」を元ネタにした私立探偵もの。
 「猫の墓場」は、子猫と一緒に死んだ殺し屋が、猫の霊によって復活させられ殺した相手への復讐を命じられるという話。

 そして、大和屋竺の殺し屋映画研究本『暗殺のポルノ』(定価600円)。
 これは再版しました。内容をわりと書き換えています。

『ザ・ミソジニー』

 高橋洋監督・脚本の映画『ザ・ミソジニー』を見た。
 それでいろいろ考えたことがあるので書いておこうと思う。

 まずわかりやすい解釈をかくと――、
 この映画は、ある劇作家がテレビでたまたま見た怪奇映像を題材にして創作をしようとしている。
 そのなかなかまとまらない創作の過程、つまり作家の脳内をそのまま描いたもの、だと思う。
 いわば《創作オチ》といったもの。押井守でいえば「迷宮物件File538」のような。

 ただそれは、とりあえず与えられた枠組みというべきで、問題は中身である。
 しかしその中身は、二人の女がわけのわからない闘争をつづけているというもので、説明はむずかしい。
 それでも思い返してみて、面白いと感じたのは、そもそもの発端がテレビのオカルト番組で流された怪奇映像であるという点だ。
 それは、気の狂った女が森の中へ走って行って、土の色が変わったところで唐突に消えるというもので、のちにユーチューブにアップされていた時にはその部分はカットされていた。何か問題があって再放送時にカットされたのだろうと映画の中では説明される。
 しかし冷静に言って、件の映像はこの種の番組の常でテキトーにでっち上げられたものではないか。ユーチューブになかったのも、うp主の気まぐれかもしれない。つまりナンセンスな断片にすぎない。
 この映画の二人の女はナンセンスに呪われている。

 ナンセンスに呪われた二人の女、というフレーズを思いついてみると、高橋洋の過去の作品はこの〈ナンセンスに呪われた二人の女〉をくり返し描いてきたことに気づく。
 『ソドムの市』では、二人の女、テレーズとマチルダは呪術を使ったことを疑われるが、その証拠の針を刺された人形は老婆の針刺しだった。
 『狂気の海』は、そもそもの語り始めがのムー帝国の末裔であるというトンデモ史観のもとで、首相夫人とFBIの女の戦いが描かれる。
 『旧支配者のキャロル』は、傲慢な大女優を主演に女子学生が監督することになったのはサイコロで選ばれた企画である。
 そして『霊的ボリシェヴィキ』は、子供の頃に神隠しに会った女と女霊能者が怪談バトルをする話だ。
 こうして並べると、まるで『ソドムの市』のテレーズとマチルダが時空を超えて転生をくり返しながら、それぞれの舞台で闘争をつづけているかに見える。『ザ・ミソジニー』がその最新バージョンというわけだ。


 ところで高橋の監督作には『恐怖』という作品もある。
 これが私にとっては気になる映画で、折に触れてアレは何だったのか、と思い返していたのだが、どうもうまく全体像をつかめずにいた。
 それが今やこの〈二人の女の闘争〉というモチーフを得たことで話の骨格がクリアになった。
 今までは〈霊的進化〉という意味ありげな題材に気を取られすぎていたのだ。だがそれだと主要人物である、みゆきとかおりの姉妹の役割がよくわからない。
 それもそのはずで、マッケンの「パンの大神」の再現を目指すなら、脳手術を行う医師・間宮悦子と妊娠する処女・理恵子がいれば事足りる(『恐怖』というタイトルもマッケンの中編からの流用だろう)。犯罪サスペンス仕立てにするために人物を加えていったとしても、みゆき・かおり姉妹の位置づけは何なのかで迷ってしまう。
 だが、この姉妹は〈闘争する二人の女〉で、こっちのほうがメインだった。〈霊的進化〉は、そのための背景設定として必要とされただけ。
 この姉妹は、たまたま深夜に起き出したというだけで満州での人体実験の映画を見てしまい、その光によってナンセンスな闘争をつづける呪いにかかってしまったのだ。


 しかし、なぜ女なのか?
 たんに監督の嗜好だろうか。それとも何か意味があるのか、よくわからない。
 では、男だったらどうなのか。
 ナンセンスに呪われ闘争をつづける二人の男……
 こう考えると、それはまるで大和屋竺的な世界ではないか。
 『殺しの烙印』では、重要な狙撃の瞬間にライフルの銃身に蝶がとまったというのが原因で殺し屋・花田はナンバー1との果てしない闘争に陥る。
 『荒野のダッチワイフ』では、恋人を殺されたというわかりやすい原因はあるが、ショウとコウ二人の殺し屋の闘争が不条理化するのは、午前三時と午後三時の取り違えというナンセンスな出来事からである。
 大和屋竺の殺し屋映画が高橋の重要な参照項であることは言うまでもないだろう。
 『荒野のダッチワイフ』にはフィルムに呪われた男が出てくるし、『殺しの烙印』の花田と同様に『ソドムの市』のテレーズも軍用モーゼルの使い手なのである。

未知しるべ

 8月13日に中野サンプラザで開催される「未知しるべ」というイベントに出店します。

www.mandarake.co.jp

 サークル名「地下石版」です。
 持っていくのは――
 クトゥルー神話の小説同人誌が三種(700~800円)。
 内容はこちらに → https://snake-o.hatenadiary.jp/entry/2022/05/25/082428

 あと大和屋竺の殺し屋映画研究本『暗殺のポルノ』(600円)。
 これは再版しました。前のやつとは少し内容が変わっています。

 興味のある方は是非ご来場を。

『魂を喰らうもの』

 ヘンリー・カットナーのクトゥルー神話作品集『魂を喰らうもの』(海野しぃる訳)を読んだので感想を書いてみる(ネタバレしています)。

 この本は同人出版で、すぐ売り切れて買えない状態だったのだけど、何と文学フリマ盛林堂書房のブースで買えた!
 文学フリマさすがである。
 そしてまずこれ表紙がいい。不気味さとユーモアの混ざったイラストで色のトーンや文字の配置もいい。値段は高めだが、まあそれは良しとしましょう。

 以下、各話の感想ですが、キャンベルの時と同様《猟犬型》とか《神殿型》とかいう用語を使っていますが、これは私が考えたクトゥルー神話の六つの分類で、詳細を知りたい方は、リンク先カクヨムに書いた解説を参照して下さい。

神話製造器(小倉蛇) - カクヨム

 ではまず一作目「墓場の鼠」。
 カットナーのデビュー作。これがクトゥルー神話か、言われるとやや疑問ではある。神話用語が全く出てこないので。しいて言えばグールもの? しかし、鼠たちをあやつっている悪霊のような存在が暗示されているので、それなりにつながりはあるとも考えられる。短編集のプロローグ的な位置づけの作品としてはいいんじゃないでしょうか。型はやや変則的な《猟犬型》といったところ。

「クラリッツの秘密」
 これは私の分類では《血族型》の範型としたもの。クトゥルーやヨグ=ソトース、それにカットナー・オリジナルのイオドにも言及がある。わりとシンプルな構成ながら深遠さを感じさせる内容で私は気に入っている。最後に主人公が自分の墓を見つけるという展開はビアスの「カルコサの住人」と似てるとも言えるが、でも話としては別系統かな……。前作「墓場の鼠」に続いてこの作品も生きながら棺桶に入れられるという結末。だが、前作がアメリカの下層犯罪者、こちらはドイツ貴族と対照的なのが面白い。(あと文中に〈植竹物〉という言葉があって、何かと思ってよくよく読んでみると、どうやら〈飢えた獣〉の誤変換だったようだ。)

「魂を喰らうもの」
ダンセイニ風掌編。ベル=ヤルナクという土地が舞台で王が悪霊と戦う。この王が自殺することで一緒に悪霊も滅ぼす。自殺する結末は私の分類だと《神殿型》(SAN値がゼロになって自殺する)なんだけど、この作品はそれと違って理性によって自殺するというパターン。

「セイレムの恐怖」
 これらは《召喚型》の範型にしたもの。主人公が小説家というのはクトゥルー神話の定番。大概は怪奇作家なのだが、この作品ではそれをロマンス小説の作家にしたことでちょっととぼけた味わいになっている。キャンベルの「魔女の帰還」と似てるが、キャンベルの方がスジは単純だが魔女のエピソードを細かく書き込んでいて雰囲気がある。カットナーのこちらは、音の反響を利用したトリックに面白みがある。

「闇の接吻」
 「セイレムの恐怖」のゴーストハンター、マイケル・リーが再登場。その助手が山田誠で、これがクトゥルー神話への日本人初登場らしい。発表は1937年なので、西尾正「墓場」(1947年)と比べても早い。海辺に家を買った画家のもとへ、山田がこの家は危ないと伝えに来るという展開は「セイレムの恐怖」の再話と思わせる。魔女の名などがスペイン風でエキゾチックな雰囲気がある。そして結末は「魂を喰らうもの」と同型で邪悪なものを巻き込んでの自殺である。型で言うと《血族型》でもあるけどむしろ《召喚型》か。「セイレムの恐怖」がラヴクラフトの「魔女の家の夢」を元ネタにしているとしたら、こちらは「戸口にあらわれたもの」の要素を加えた感じ。ところで、この作品、青心社や国書の既約ではカットナーとロバート・ブロックの共作ということになっている。そして森瀬繚の『クトゥルー神話ダークナビゲイション』には「カットナーはこれを自作と認めたがらなかった」(p135)とある。で、ウィキペディア英語版のカットナーの項によると「実際は完全にブロックによって書かれた。マイケル・リーを使用したためにカットナーを共作者とした。」ということらしい。

「ドムール=アヴィスタの戯れ」
 これもベル=ヤルナクを舞台としたダンセイニ風掌編といったもの。これ、私は最初に読んだときは意味がよくわからなかったのですが、じっくり再読してわかった。ベル=ヤルナクはもともと金銀宝石で覆われた美しい都市だったのですね。そこで《生命の水》を用いたら最後の一行のようになったと、なるほど。でもまだ、ちょっとわからないところがあって、p108一行目、ドムール=アヴィスタとの対話が終わった時点で〈最も貴重な金属へと置き換わっていった〉となっているが、だとすると都市の変成は、その後ソラゾールが生成した《生命の水》のせいではないのだろうか? 型は何型とも言えない、悪魔との契約ものだし。あと、この作品には謎の解説パートがついている。それも明らかに長い文章をぶった切ったもののようだが……?

ダゴンの落とし子」
 異世界ものだが、これはヒロイックファンタジーで〈アトランティスのエラーク〉シリーズの一作。とはいえダゴンを復活させようとする落とし子たちが出てくるので世界観はコアなクトゥルー神話に接続している。で、型は《召喚型》。この落とし子らラヴクラフトの《深きもの》みたいなものだと思うけど、魚のような顔にオウムのような嘴と描写される。カッコイイのでは。エラークはゼンドという魔術師を殺すため宮殿へ行くのだけれど、そこで見かけた身長30センチの小人をいきなりゼンドだと推測したとなっている。ここ小人の正体に気づく何か理由付けが欲しかった。

「境界の侵犯者」
 海辺のコテージで暮らす作家が『妖蛆の秘密』に記された薬品を用いたために異界のものに襲われるが、人類に味方するヴォルヴァドスを召喚して助かるという「ティンダロスの猟犬」(ロング)と「闇に棲みつくもの」(ダーレス)を合わせたような話。なので《猟犬型》の要素もあるが結果的には《召喚型》。これまでこの作品集では別個に語られてきた現実編と異世界編がここで交わるという様が感動的。この作品、内容そのままで映画にしたら『死霊のはらわた』にドラック幻覚を足したようないい感じの低予算スプラッターになりそう。流血シーンは少なめだが。

「蛙」
うっかり封印を解いてしまったために蛙のような怪物に追われる男を描いている。結末は唐突な感じもするが、マシスンの「激突!」のようなひたすら追われるサスペンスを楽しむ作品なのだろう。分類上は《猟犬型》。魔女と怪物の関係が神話的だが神話用語への言及はない。が、舞台である〈モンクズ・ホロウ〉は後に「狩りたてるもの」で再登場する。

「恐怖の鐘」
 「ドムール=アヴィスタの戯れ」のところで述べた解説文によると、この作品はラヴクラフト「闇をさまようもの」のオマージュなのだとか。なるほど、これは気づかなかったので有難い。「闇をさまようもの」は《猟犬型》だけどこの作品では精神を侵されるので《神殿型》で、鐘を破壊したことでズシャコンの出現を阻止したということでは《召喚型》。『イオドの書』が初登場だがこれはカットナーではこの一作にしか出てこない。後の二作で言及される『カルナックの書』より響きや字面はいいんだが(なぜか『カルナックの書』は辞典類ではほとんど言及がない)。

「ハイドラ~魂の射出者~」
 ハイドラと言えばラヴクラフトインスマスの影」では〈母なるハイドラ〉と〈父なるダゴン〉とセットで語られる存在だが、ここでは犠牲者の生首が大量に浮かんでいるという描写からすると、多数の頭を持つ蛇であるギリシャ神話のハイドラ(ヒュドラ)のイメージが起源ではないかと思う。とは言え、アザトースにも言及されるのでクトゥルー神話であることは間違いない。前半はハイドラの話だったのが途中からアザトースの話になるのでちょっと混乱する。型はハイドラに関しては《猟犬型》、アザトースに関しては《神殿型》という感じ。

「狩りたてるもの」
 モンクズ・ホロウのある家で男が魔術的な儀式を行おうとしているところへ来客がある。この冒頭からすると《召喚型》のようだが、じっさいはこの儀式の執行者を射殺した犯罪者が呪われる、つまり精神を侵されるという話なのでこれは《神殿型》。犯罪もの+クトゥルー神話ということで私の好きな雰囲気。なのだけど、幻覚パートの使い方にもう少し工夫があればなお良かった。いっそのことキャンベルの「嵐の前に」のように文章を混沌化させて終わるとか。結末は〈生きながらの埋葬〉で、最初の二作での結末が回帰して本書は終わる。

 全体の感想。この本はカットナーのクトゥルー神話関連作を古い順に並べただけと思われるが、それでいて緻密に構成された組曲のように連作としての物語性も感じられるところが面白い。
 まず邪悪なものの存在が語られるが、ゴーストハンターや人類に味方する神の活躍も描かれる。「境界の侵犯者」がクライマックスで悪が撃退される。だが、その後もモンクズ・ホロウのような危険な地は存在するし、悪の根源たるアザトースも復活の機会を待っている。人類の危機は去ったわけではないという余韻を響かせつつ、最初の主題〈生きながらの埋葬〉が再度語られ幕。と、なかなか見事な構成なのでは。
 カットナーの作品はクトゥルー神話に必要な〈パルプ感〉と〈コスミック感〉のバランスが良く、その意味ではいいのだが、欲を言えば、手がかり辿っていくことで徐々に真相が明かされる、探偵小説的な構成性があればさらにラヴクラフト的になったのではないかと思う。

 型について補足。上記の分類では《猟犬型》《神殿型》《血族型》《召喚型》が使われている。私の分類ではあと《実現型》と《暗示型》というのがあるのだが。《実現型》の方は、魔道書の記述が実現するという型なので「境界の侵犯者」や「ハイドラ~魂の射出者~」が当てはまる。《暗示型》は、何が起こったのかわからないまま人が消えるといったタイプの話。この型の話はなかった。「ハイドラ」をオカルトを信じない立場から書けばこの型になったかも。

 最後に、この本の中の作品ベスト3を挙げるなら――「クラリッツの秘密」「境界の侵犯者」「狩りたてるもの」となる。

文学フリマ東京34

 第34回文学フリマ東京に出店します。2022年5月29日開催。

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 ブースは【ケ‐24】、サークル名「地下石版」です。


 今回持っていく本は、

『真夜中のアウトサイダー/ガロス=レー』(定価800円)
「真夜中のアウトサイダー」は、ポーの「赤き死の仮面」をオペラ化しようとしている作曲家からの依頼で、私立探偵が失踪したジャズ・ミュージシャンについて調べる話。
「ガロス=レー」は、オカルト雑誌編集者とラノベ作家のコンビが、小説やゲームなど複数の作品にあらわれる〈ガロス=レー〉という名称の謎を追う話。
『水晶の中の銀河/月の庭園』(定価700円)
 この二作は《髑髏水晶の魔女》と呼ばれる占い師・蒼井水緒がゴーストハンター的な活躍をする連作(この主人公のシリーズはいつか再開したい)。
『何かが俺を呼んでいる/電気椅子奇譚/猫の墓場』(定価800円)
「何かが俺を呼んでいる」は、宗教団体の教祖の暗殺を依頼された殺し屋の話。
電気椅子奇譚」は、アドルフ・デ・カストロの「電気処刑器」を元ネタにした私立探偵もの。
「猫の墓場」は、子猫と一緒に死んだ殺し屋が、猫の霊によって復活させられ殺した相手への復讐を命じられるという話。


 新刊はありません。
 あと、大和屋竺の殺し屋映画研究本『暗殺のポルノ』は前回で完売しました。この本は書き直したい部分があるので、いずれ改訂版として再刊する予定です。

『グラーキの黙示』2

 前回のつづきでラムジー・キャンベル『グラーキの黙示』第2巻の感想です。
(注:ネタバレしています!)

 まず「島にある石」から。これは1964年発表なので、ラヴクラフト模倣期の一巻に入れてもよかったはずだが、読んでみると二巻の文体実験期に位置付けても違和感はない。
 親族の死による遺品の調査からはじまるので、これはキャンベル版の「クトゥルーの呼び声」か、と思いきや、後半は心霊譚的になる。出だしの期待感の割に
神話作品としては物足りない。型は《猟犬型》ですね。

「嵐の前に」。文体実験が最も全面化した作品。ウイリアム・S・バロウズの影響を受けているそう。これだったらラヴクラフト模倣のほうがいいなと思いながら読んでいたが、読み終わってみたら面白かった。高橋洋的な感じがする。『リング2』か、何なら『霊的ボリシェヴィキ』のような狂気が不条理に伝染していく感じ。型はよくわからない、しいて言えば《実現型》かな。

「コールド・プリント」。「嵐の前に」と比べるとまともになっているが、文体はかなり幻惑的。エロ本を買いに行ったらヤバいところへ迷い込んでしまうという展開が何か楽しい。作中で本のタイトルがたくさん出てくるのと、全体の構成は「闇をさまようもの」に近いと思う。しかし型は主人公のほうが引き寄せられるので《神殿型》。

「フランクリンの章句」。外枠の語り手がキャンベル自身で、彼が架空の小説家について語るという構成なのだが、それは余計なもののように感じられる。本にあらわれるメッセージと棺へ迫る魔物の話で十分だったのではないか。それをあえて入れ子状に複雑化させたのは、もはやパルプ的な怪奇小説では飽き足らないということかと思う。型は、フランクリンにとっては《猟犬型》で、アンダークリフとキャンベルにとっては《暗示型》。この作品、オカルトマニア的探索や埋葬された不死者などで「魔犬」とイメージ的に似てる気がする。あとタイトルは「地を穿つ魔」でもよかった。

「窖からの狂気」。スミス風の異世界もの。語りだしからオチまでうまくまとまっていて、ボルヘス的な構成美すら感じる。ポーの「アモンティリアードの酒樽」と似ているが、罠のスケールが大きい。型は、《猟犬型》ともいえるが、神が仕掛けた罠なので《神殿型》に分類したい。
 
「絵の中に描かれていたもの――」。幻想的な絵の説明がえんえんと続く。いわば文字で書かれた画集。これも実験作の一つだろう。「ピックマンのモデル」と関連しているとも言える。

「誘引」。主人公が見ている夢と同じ題材の絵があり、さらに父も同じ夢を見ていて、という話で「クトゥルーの呼び声」に対抗した作品と思われる。その一方で、地球に接近する謎の惑星も描かれて独特のスケール感がある。だが父子の見た夢は何だったのか。ストーリーからすれば、劇場にある望遠鏡の夢らしいが、ならばアトランティスを描いたという絵との関係は? 型は、劇場へ引き寄せられていく《神殿型》でもあるし、夢の実現という《実現型》でもある。あと『グラーキの黙示録』の出し方が、実在のものらしい書物を数冊挙げて、そこへ自作の魔道書を紛れ込ませるというラヴクラフトの「魔宴」や、ブロックの「奇形」で使われていた手法だった。

「パイン・デューンズの顔」。この辺から実験的というよりは普通にうまい小説になってる感。型は、ここへきて初の《血族型》。キャンベルの作風にはじつは《血族型》が合ってるとおもうのだが。主人公が真の血筋を知りテンションが上がる場面は「インスマスの影」を思わせる。

「暗転」。作者はクトゥルー神話のつもりで書いたわけではないということだが、蝋燭に囲まれた教会は「闇をさまようもの」を、村中の人間が教会に集まる場面は「魔宴」を思わせる。ドイツを舞台にしたこともいい効果になっている。主人公が追われることになるきっかけが不明だが、背景を想像するなら、教会にトラペゾヘドロンがあって村人はニャルラトテップに生贄を捧げる契約を結んでいる、とか。ニャルもここでは自力で蝋燭を消せるぶん強くなってる。型は、「窖からの狂気」と同様、表面上は《猟犬型》だが、それ以前に罠にかけられているニュアンスがあるので《神殿型》にしたい。結末で、なぜか車が移動させられているという展開があるが、これが意味不明に思える。ショックよりもサスペンスを高めて終わる手法か。

 最後「砂浜の声」。砂浜にあらわれる模様(パターン)が精神に影響を与えるというメインアイディアは面白い。が結末がやや冗長。そして神話用語なしはさびしい。無理に入れる必要はないが、廃村で文書を見つけるという流れがあるのなら、そこで『グラーキの黙示録』でも、クトゥルーについての手記でも出せたのではないか。型は、よくできた《暗示型》。

 全体の感想。「ムーン=レンズ」と「パイン・デューンズの顔」で「インスマスの影」に、「湖の住人」と「砂浜の声」で「闇に囁くもの」に、というふうにそれぞれ補完関係にあるのではないか。つまりキャンベルはラヴクラフト作品を基本設定と結末に分けて使っている。初期作品では、基本設定を流用しつつ、舞台をブリチェスターに変えてストーリーを展開した。だがそれで、結末まで同じにしてしまうと、いかにも同じ話になってしまう。そこで無理にも違う結末をつけた。そのため、どこか微妙に破綻したような話になった。
 本書第二巻の頃ではそれが、オリジナルのストーリーを展開しつつ結末のつけ方で、ラヴクラフトと同じ地点を目指した。そのことでオリジナリティーもありつつ、安定した神話作品を書けるようになった。というふうに思う。

 第二巻で好きな作品を上げると、バランスの良さということでは「コールド・プリント」や「パイン・デューンズの顔」だが、大胆さ、無茶さも含めて好きな作品はというと一位が「誘引」、二位が「嵐の前に」。
 これと第一巻で好きな「湖の住人」を合わせてベストスリーということで。



 次はカットナーの作品集が読めるぞ、と思っていたが、もう売り切れだった……