『グラーキの黙示3』「グラアキ最後の黙示」

 少額ながらクラウドファウンディングに参加していたのでラムジー・キャンベルのクトゥルー神話作品集『グラーキの黙示』第三巻が送られてきた。中身は「グラアキ最後の黙示」という中編一作にT・E・D・クラインによる解説、森瀬繚による解題という構成。一、二巻と比べるとやや薄めだが、単行本として不足というほどでもない。何よりキャンベルが2013年発表した神話作品の新作が読めるのはうれしい。

(以下ネタバレ感想)
「グラアキ最後の黙示」を読みながら思ったのは、アラン・ムーアとジェイセン・バロウズによるマンガ『プロビデンス』と似てるなということだった。どちらも、本の入手のために奇妙な人々と会っていくという構成だった。
 もちろん違いはある。『プロビデンス』では主人公の目的が途中から変化していくし、一話ごとに別のラヴクラフト作品がベースになっていく。「グラアキ最後の黙示」では、『グラーキの黙示録』の複数巻を一冊づつ手に入れる過程が描かれ、全体に「インスマスの影」のような雰囲気である。
 主人公レナード・フェアマンは図書館の司書ということらしいが、なぜ『グラーキの黙示録』を集めているのかよくわからない。スティーヴン・キングの小説のように主人公の生い立ちからじっくり描くような書き方ではなく、いきなり浜辺の町ガルショーに到着するところから始まる。事情が分からないまま進行する悪夢のようである。
 フェアマンは、キャンベルの過去作「湖の住人」の舞台である湖畔の記憶を持っている。この回想もどういう意味があるのか不明だが、読者もまた記憶しているだろう六つの家が並ぶ湖畔のイメージと共鳴するかのような不思議な感覚がある。
 全体に淡々と進行していく感じだが、最後には大きな怪異も起こる。しかし主人公はさほど衝撃を受けた様子もなく、ラヴクラフトの主人公以上に受け身で茫洋としている。 
 結末では、何度も出てきていた「見どころがまだたくさんあります」というセリフが効果的に使われている。

 このストーリーは、まるでエッシャーの版画のようだ。同じ模様の繰り返しを眺めていくと、いつの間にか図と地が反転している、そんな作品である。

『プロビデンス』について

 先日発売された『プロビデンスAct3』で、アラン・ムーアクトゥルー神話四部作もめでたく完結したということで感想を書いてみたい。
 まず、作画担当のジェイセン・バロウズは絵が上手い。最初の「中庭」の時点でも上手かったが、「ネオノミコン」でさらに上手くなり、『プロビデンス』では1920年前後のアメリカという難しい題材を見事に再現していて、ラヴクラフトの小説を再現したコマなんかはほれぼれする上手さだ。
 ところでこの“四部作”、同じ作者のクトゥルーものということで無理やりまとめたのかな、なんて思っていたのだが、最後まで読んでみるとちゃんとつながっていて、むしろ『ネオノミコン』『プロビデンス』の順で読まないと意味がわからない。
 『プロビデンスAct3』の展開は、それまで視点人物だった主人公ロバート・ブラックが途中で脱落してしまい、結末までたどり着けないというものだった。最終章で描かれるのは『ネオノミコン』の登場人物たちなのである。
 これはいかなる事態なのか。自分なりに整理してみようと思う(以下ネタバレあり)。


 『プロビデンス』の主人公ロバート・ブラックは新聞社ヘラルドの記者である。彼はちょっとした埋め草記事が必要になり、その時、同僚の女性社員が話題にした『スー・ル・モンド(世界の下で)』という読んだ者が狂気に陥るという書物の取材をすることにする。この話題を出した女性は『スー・ル・モンド』を『黄衣の王』と混同している。要するに『黄衣の王』と似ているがよりヤバそうな(架空の)本という設定なのだろう。
 で、取材に行ったのは『スー・ル・モンド』についてエッセイを書いていたアルバレズ博士、この人物は顔色の悪いスペイン人でアンモニア臭と冷気に包まれた部屋で暮らしている。つまりラヴクラフトの「冷気」が再現されている(作中時では書かれる前)。アルバレズ博士は『スー・ル・モンド』について書いたのは、言及されている古代アラブの錬金術の書『キタブ・アル・ヒクマー・ナジミイヤ』に興味を持ったからだと語る。そしてこの章の最後は博士が関係を持っているらしいアパートの家主である老婆が毛皮を脱いで裸を見せるところで終わる。
 ここからブラックは『キタブ・アル・ヒクマー・ナジミイヤ』とそれを所有する秘密結社《ステラ・サピエンテ》を追う旅をつづけることになる。その各章では、奇妙な人物に会って話を聞き、ラヴクラフトの作品に基づく出来事がありつつ、老女の裸のような秘密が明かされるというのが基本パターンとなる。2~4章ではそれぞれ「レッド・フックの恐怖」「インスマスの影」「ダンウィッチの怪」が元ネタとなっている。
 しかしここで何となくモヤモヤするのが、ブラック自身はラヴクラフト的な怪異に遭遇しながらもそれをほとんど恐怖とは感じないことだ。サイダム家の地下で目撃したリリスはガス漏れのガスを吸ったせいの幻覚だし、アソール付近の海を集団で泳いでいるのはアザラシの群れで、ホイートリー家の娘は何もいない空間に話しかけている。これらのことよりも自殺した同性の恋人のことばかり気に病んでいる。
 Act2前半の2章は「魔女の家の夢」と「戸口にあらわれたもの」が元ネタで時間ループと精神交換による少女レイプ(つまり自分が犯される)を体験し主人公はショックを受けるが、時が経つうちに精神を病んだことによる悪夢として受け止めたようである。そしてここで『キタブ・アル・ヒクマー・ナジミイヤ』の現物を手にする機会もあるが、とくにその内容に衝撃を受けたふうでもない。
 次の第7章「ピックマンのモデル」をモデルにした話を経て、Act2最後にはとうとうラヴクラフト本人との出会いが描かれる。
 Act3冒頭の第9章は「彼方より」が元ネタだが、むしろ次章とセットで「闇をさまようもの」を構成している。第9章でブラックは遠紫外線波長の眼鏡をかけたアーンズリーからステラ・サピエンテの正体を聞かされる。それによりブラックはステラ・サピエンテは、オカルト結社というよりは科学的思考による友愛団という印象を受ける。儀礼的な位階はあるがそれもフリーメーソン同様のたんに形式上のものに過ぎないと。
 秘密結社の追跡というモチーフは、ラヴクラフトで言えば「クトゥルーの呼び声」を思わせもする。「クトゥルーの呼び声」の主人公は《クトゥルー教団》の正体を探りその実在ばかりか、海底に眠るクトゥルーそのものの存在まで知ってしまい、さらにはその秘密を知ったことで暗殺者に狙われたことも相俟って恐怖と絶望から自殺を選ぶ。『プロビデンス』のブラックはこれとは逆の結論にたどり着いたかに見える。とりあえずこの段階では。
 だが次の第10章で事態は一転する。ブラックはついに逃れようのない怪異に直面する。彼はすでに前章で廃墟化した教会でトラペゾヘドロンを目撃している(本作のトラペゾヘドロンは第5章で少しだけ描かれていた「宇宙からの色彩」を思わせる現場から運び込まれた隕石という設定。こういうマッシュアップ的変形も楽しい)。ブラックの部屋へあらわれたのは『プロビデンス』の登場人物ジョニー・カルコサだった。やはり彼はナイアルラトホテップの化身であるらしい。
 主人公の名がロバート・ブラックで、ステラ・サピエンテとは「星々の智慧」を意味する。つまりこの『プロビデンス』全体が、主人公がロバート・ブレイクで《星の智慧派》について語られる「闇をさまようもの」を引きのばしたものともいえる。
 第11章、ブラックはショックを受けた状態のままニューヨークへと帰り、レコードをかけてくれるクラブのようなところへ行き音楽を聞く。これがこの作品に描かれるブラックの最後の姿である。この後は、これから先の出来事がダイジェストのように描かれる。だが、数コマごとにレコードのレーベルだけのコマがあらわれることからして、これらはブラックが未来の出来事を幻視しているということではないか。
 しかしでは、この主人公の役割とは何だったのか?
 ブラックが幻視する未来は備忘録と呼ばれるノートが関わっている。じつはこの『プロビデンス』、マンガによる各章のあいだに手書きの文章による「備忘録」というパートがある。マンガで描かれた出来事を主観的な文章で語りなおしたものである。マンガでは描き切れなかった情報やブラックの心情などがわかる構成になっている。問題はこのノートをブラックはラヴクラフトに見せていることで、これがきっかけで後にクトゥルー神話を構成することになる作品が書かれたのだ。
 ブラックの幻視は、サイケデリック幻覚のようなものではなく、その多くは実際に起こったことである。そしてそれはクトゥルー神話の爆発的な発展をあらわしている。クトゥルー神話の爆発的な発展、それは現実に起こった奇跡のような出来事である。
 『プロビデンス』で描かれるロバート・ブラックの物語は、この現実のたどった歴史から逆算して構成された、奇跡へいたる旅なのである。
 第11章の最後は未来の幻視からつながる形で『ネオノミコン』のつづきになる。なかなかアクロバティックな着地だ。そして第12章が最終章。それまで影の存在だったものたちが世界を覆い始める。神話が現実となったのだ。
 映画『マウス・オブ・マッドネス』にはこんなセリフがあった。「信じる者が多ければそれが現実になる」

 柳下毅一郎の「訳者あとがき」によると『ネオノミコン』の前半部「中庭」は、ラヴクラフトの連作詩「ユゴスからの黴」の中の一篇「中庭」が素材になっていたらしい。Fungi from Yuggothは『文学における超自然の恐怖』の大瀧啓裕訳「ユゴスの黴」も『宇宙の彼方の色』の森瀬繚訳「ユゴスからの真菌」も何となく目を通してはいたのだが。しっかり読んでいれば、自分で気づけたのに、と思うと悔しい。今さらながらきちんと再読しようと思う。

合同本への参加

2024年5月19日(日)東京流通センターにて開催される文学フリマ38。
ここで頒布されますクトゥルー神話合同本に私も参加させてもらっています。

bunfree.net

こちらの皇帝栄ちゃん氏の本です。

「音楽的な計画と注釈」という短編を書きました。
よろしくお願いします。

窓に! 窓へ! 窓が!

 もう出たのはだいぶ前になるが、新潮文庫の〈クトゥルー神話傑作選〉『狂気の山脈にて』所収の「ダゴン」では、これまでの訳では「窓に! 窓に!」だった最後のフレーズが「窓へ! 窓へ!」になっている。
 窓から逃げるのかな、と私は思っていたのだが、このまとめを読むと、

「とても大きな勘違いをしていた」ホラーでよくある『窓に!窓に!』というセリフは日本と海外では全く違う意味だったらしい - Togetter

「窓へ」と言っているのは、身投げするということらしい。
 この「ダゴン」は過去の出来事の回想を書いていた男が、最後の部分になって怪異が迫ってもなお、リアルタイムの実況を書きつづけるところが面白いところで、「そんなことあるか」とツッコミたくなるところでもあった。
 だが、この文書が遺書であると考えると、最後の最後まで自分の状況を書き残したいという願望はわからなくもない気もする。
 「窓に」の解釈、目の前の窓から怪物が迫っているのに文章を書きつづけているという状態も、書くことでハイになっているかのような不条理感があって、これはこれで捨てがたい。
 何なら「窓が! 窓が!」でもよかったのではないかとも思う。つまり窓が変質して外の景色が変化したという説。あの隆起した無人島とつながってしまったのだ。まるで当時は存在しなかったテレビのように。
 じっさいラヴクラフトのその後の作品でも、窓に異様なものが現れるというモチーフはくり返し描かれている。
 窓辺に立っていた男が顔を抉られる「潜み棲む恐怖」、ガラスに死者の顔が焼き付いているという伝説から異界に通じた窓について語られる「名状しがたいもの」、「神殿」の潜水艦の窓からはアトランティスの遺跡が、「狂気の山脈にて」の飛行機の窓からは凍てつく荒野のカダスが眺められる。そして鏡やレンズも窓の変形と考えるなら、「アウトサイダー」の鏡や「ダンウィッチの怪」の望遠鏡もここに加えることができる。さらには「闇をさまようもの」の主人公ロバート・ブレイクも窓と向き合って死んでいた。おまけにもう一つ、ラヴクラフト&ダーレス名義によるいわゆる死後共作「破風の窓」も、正しく窓越しに怪物が迫ってくる話である。
 遠く隔たったものが間近にあらわれる。それを媒介するのがメディアである。メディアとしての窓。
 「ダゴン」に描かれているのが、テレビのような視覚メディアとしての窓であるとして、同じラヴクラフトの初期作品「ランドルフ・カーターの陳述」では、聴覚メディアである電話が重要な役をはたしている。つまり、この二作は地獄のような異界に通じてしまう視覚・聴覚メディアという一対の作品となっているのである。
 後期の作品では、超科学的あるいは魔術的なメディアが描かれる。「闇に囁くもの」ではユゴス星の金属円筒から(不)死者の囁きが聞こえ、「闇をさまようもの」ではトラペゾヘドロンを通して異界の光景を見る。やはり聴覚・視覚の一対である。
 こうした視・聴覚の一対という発想は、ポーの色彩のドラマ「赤き死の仮面」と音響のドラマ「アッシャー家の崩壊」に遡れるかもしれない。ラヴクラフトにも、色彩が全面化した「宇宙からの色」、音響に焦点化した「エーリッヒ・ツァンの音楽」がある。この二作はラヴクラフト自身のお気に入りらしい。
 だが、異様な光景や音響がメディアを介してあらわれるところに二十世紀人であるラヴクラフトの面目躍如たるものがあるのではないか。

文学フリマ東京35

 文学フリマ東京35に出店します。

bunfree.net


 ブースは【J‐15】、サークル名「地下石版」です。

 今回持っていく本は、

 クトゥルー神話短編二作『真夜中のアウトサイダー/ガロス=レー』(定価800円)
 「真夜中のアウトサイダー」は、ポーの「赤き死の仮面」をオペラ化しようとしている作曲家からの依頼で、私立探偵が失踪したジャズ・ミュージシャンについて調べる話。
 「ガロス=レー」は、オカルト雑誌編集者とラノベ作家のコンビが、小説やゲームなど複数の作品にあらわれる〈ガロス=レー〉という名称の謎を追う話。

 クトゥルー神話ゴーストハンターもの『水晶の中の銀河/月の庭園』(定価700円)
 この二作は《髑髏水晶の魔女》と呼ばれる占い師・蒼井水緒がゴーストハンター的な活躍をする連作。

 ハードボイルド的クトゥルー神話三作『何かが俺を呼んでいる/電気椅子奇譚/猫の墓場』(定価800円)
 「何かが俺を呼んでいる」は、宗教団体の教祖の暗殺を依頼された殺し屋の話。
 「電気椅子奇譚」は、アドルフ・デ・カストロの「電気処刑器」を元ネタにした私立探偵もの。
 「猫の墓場」は、子猫と一緒に死んだ殺し屋が、猫の霊によって復活させられ殺した相手への復讐を命じられるという話。

 そして、大和屋竺の殺し屋映画研究本『暗殺のポルノ』(定価600円)。
 これは再版しました。内容をわりと書き換えています。

『ザ・ミソジニー』

 高橋洋監督・脚本の映画『ザ・ミソジニー』を見た。
 それでいろいろ考えたことがあるので書いておこうと思う。

 まずわかりやすい解釈をかくと――、
 この映画は、ある劇作家がテレビでたまたま見た怪奇映像を題材にして創作をしようとしている。
 そのなかなかまとまらない創作の過程、つまり作家の脳内をそのまま描いたもの、だと思う。
 いわば《創作オチ》といったもの。押井守でいえば「迷宮物件File538」のような。

 ただそれは、とりあえず与えられた枠組みというべきで、問題は中身である。
 しかしその中身は、二人の女がわけのわからない闘争をつづけているというもので、説明はむずかしい。
 それでも思い返してみて、面白いと感じたのは、そもそもの発端がテレビのオカルト番組で流された怪奇映像であるという点だ。
 それは、気の狂った女が森の中へ走って行って、土の色が変わったところで唐突に消えるというもので、のちにユーチューブにアップされていた時にはその部分はカットされていた。何か問題があって再放送時にカットされたのだろうと映画の中では説明される。
 しかし冷静に言って、件の映像はこの種の番組の常でテキトーにでっち上げられたものではないか。ユーチューブになかったのも、うp主の気まぐれかもしれない。つまりナンセンスな断片にすぎない。
 この映画の二人の女はナンセンスに呪われている。

 ナンセンスに呪われた二人の女、というフレーズを思いついてみると、高橋洋の過去の作品はこの〈ナンセンスに呪われた二人の女〉をくり返し描いてきたことに気づく。
 『ソドムの市』では、二人の女、テレーズとマチルダは呪術を使ったことを疑われるが、その証拠の針を刺された人形は老婆の針刺しだった。
 『狂気の海』は、そもそもの語り始めがのムー帝国の末裔であるというトンデモ史観のもとで、首相夫人とFBIの女の戦いが描かれる。
 『旧支配者のキャロル』は、傲慢な大女優を主演に女子学生が監督することになったのはサイコロで選ばれた企画である。
 そして『霊的ボリシェヴィキ』は、子供の頃に神隠しに会った女と女霊能者が怪談バトルをする話だ。
 こうして並べると、まるで『ソドムの市』のテレーズとマチルダが時空を超えて転生をくり返しながら、それぞれの舞台で闘争をつづけているかに見える。『ザ・ミソジニー』がその最新バージョンというわけだ。


 ところで高橋の監督作には『恐怖』という作品もある。
 これが私にとっては気になる映画で、折に触れてアレは何だったのか、と思い返していたのだが、どうもうまく全体像をつかめずにいた。
 それが今やこの〈二人の女の闘争〉というモチーフを得たことで話の骨格がクリアになった。
 今までは〈霊的進化〉という意味ありげな題材に気を取られすぎていたのだ。だがそれだと主要人物である、みゆきとかおりの姉妹の役割がよくわからない。
 それもそのはずで、マッケンの「パンの大神」の再現を目指すなら、脳手術を行う医師・間宮悦子と妊娠する処女・理恵子がいれば事足りる(『恐怖』というタイトルもマッケンの中編からの流用だろう)。犯罪サスペンス仕立てにするために人物を加えていったとしても、みゆき・かおり姉妹の位置づけは何なのかで迷ってしまう。
 だが、この姉妹は〈闘争する二人の女〉で、こっちのほうがメインだった。〈霊的進化〉は、そのための背景設定として必要とされただけ。
 この姉妹は、たまたま深夜に起き出したというだけで満州での人体実験の映画を見てしまい、その光によってナンセンスな闘争をつづける呪いにかかってしまったのだ。


 しかし、なぜ女なのか?
 たんに監督の嗜好だろうか。それとも何か意味があるのか、よくわからない。
 では、男だったらどうなのか。
 ナンセンスに呪われ闘争をつづける二人の男……
 こう考えると、それはまるで大和屋竺的な世界ではないか。
 『殺しの烙印』では、重要な狙撃の瞬間にライフルの銃身に蝶がとまったというのが原因で殺し屋・花田はナンバー1との果てしない闘争に陥る。
 『荒野のダッチワイフ』では、恋人を殺されたというわかりやすい原因はあるが、ショウとコウ二人の殺し屋の闘争が不条理化するのは、午前三時と午後三時の取り違えというナンセンスな出来事からである。
 大和屋竺の殺し屋映画が高橋の重要な参照項であることは言うまでもないだろう。
 『荒野のダッチワイフ』にはフィルムに呪われた男が出てくるし、『殺しの烙印』の花田と同様に『ソドムの市』のテレーズも軍用モーゼルの使い手なのである。

未知しるべ

 8月13日に中野サンプラザで開催される「未知しるべ」というイベントに出店します。

www.mandarake.co.jp

 サークル名「地下石版」です。
 持っていくのは――
 クトゥルー神話の小説同人誌が三種(700~800円)。
 内容はこちらに → https://snake-o.hatenadiary.jp/entry/2022/05/25/082428

 あと大和屋竺の殺し屋映画研究本『暗殺のポルノ』(600円)。
 これは再版しました。前のやつとは少し内容が変わっています。

 興味のある方は是非ご来場を。