窓に! 窓へ! 窓が!

 もう出たのはだいぶ前になるが、新潮文庫の〈クトゥルー神話傑作選〉『狂気の山脈にて』所収の「ダゴン」では、これまでの訳では「窓に! 窓に!」だった最後のフレーズが「窓へ! 窓へ!」になっている。
 窓から逃げるのかな、と私は思っていたのだが、このまとめを読むと、

「とても大きな勘違いをしていた」ホラーでよくある『窓に!窓に!』というセリフは日本と海外では全く違う意味だったらしい - Togetter

「窓へ」と言っているのは、身投げするということらしい。
 この「ダゴン」は過去の出来事の回想を書いていた男が、最後の部分になって怪異が迫ってもなお、リアルタイムの実況を書きつづけるところが面白いところで、「そんなことあるか」とツッコミたくなるところでもあった。
 だが、この文書が遺書であると考えると、最後の最後まで自分の状況を書き残したいという願望はわからなくもない気もする。
 「窓に」の解釈、目の前の窓から怪物が迫っているのに文章を書きつづけているという状態も、書くことでハイになっているかのような不条理感があって、これはこれで捨てがたい。
 何なら「窓が! 窓が!」でもよかったのではないかとも思う。つまり窓が変質して外の景色が変化したという説。あの隆起した無人島とつながってしまったのだ。まるで当時は存在しなかったテレビのように。
 じっさいラヴクラフトのその後の作品でも、窓に異様なものが現れるというモチーフはくり返し描かれている。
 窓辺に立っていた男が顔を抉られる「潜み棲む恐怖」、ガラスに死者の顔が焼き付いているという伝説から異界に通じた窓について語られる「名状しがたいもの」、「神殿」の潜水艦の窓からはアトランティスの遺跡が、「狂気の山脈にて」の飛行機の窓からは凍てつく荒野のカダスが眺められる。そして鏡やレンズも窓の変形と考えるなら、「アウトサイダー」の鏡や「ダンウィッチの怪」の望遠鏡もここに加えることができる。さらには「闇をさまようもの」の主人公ロバート・ブレイクも窓と向き合って死んでいた。おまけにもう一つ、ラヴクラフト&ダーレス名義によるいわゆる死後共作「破風の窓」も、正しく窓越しに怪物が迫ってくる話である。
 遠く隔たったものが間近にあらわれる。それを媒介するのがメディアである。メディアとしての窓。
 「ダゴン」に描かれているのが、テレビのような視覚メディアとしての窓であるとして、同じラヴクラフトの初期作品「ランドルフ・カーターの陳述」では、聴覚メディアである電話が重要な役をはたしている。つまり、この二作は地獄のような異界に通じてしまう視覚・聴覚メディアという一対の作品となっているのである。
 後期の作品では、超科学的あるいは魔術的なメディアが描かれる。「闇に囁くもの」ではユゴス星の金属円筒から(不)死者の囁きが聞こえ、「闇をさまようもの」ではトラペゾヘドロンを通して異界の光景を見る。やはり聴覚・視覚の一対である。
 こうした視・聴覚の一対という発想は、ポーの色彩のドラマ「赤き死の仮面」と音響のドラマ「アッシャー家の崩壊」に遡れるかもしれない。ラヴクラフトにも、色彩が全面化した「宇宙からの色」、音響に焦点化した「エーリッヒ・ツァンの音楽」がある。この二作はラヴクラフト自身のお気に入りらしい。
 だが、異様な光景や音響がメディアを介してあらわれるところに二十世紀人であるラヴクラフトの面目躍如たるものがあるのではないか。